いったん輝かしい歴史に幕を閉じるとのこと。
清宮幸太郎選手が活躍中であるとのこと。
甲子園を目指そう!と思っていた節があるのですが、
わが母校(高校)には硬式野球部が無いことに気づき、がっかりしたものです。(笑)
今までにも何人か来てくれていました。
一度きりしか無い人生、非常に貴重な経験が出来てうらやましい限りです。
ふだん忘却の彼方にあるのに、いったん思い出すと気になってしかたないこと、誰にでもあると思います。
「安田講堂」と書いた昨日から、処々昔日の記憶にとらわれています。自書しておきながら、縛られて、自縄自縛とは、このことでしょうか。
「封鎖」の「ふ」の字も無くリニューアルされてしまった現況と、下階から順番に封鎖解除されていったフロアの火の海が、果たして同じ空間なのだろうかと思われて、昔日のほとばしる思いが、昨日のことのように、思い出されはしませんか。
屋上でインターを合唱した仲間が囚われ、最後まで振られていた「社学同」の赤旗が降ろされた時、攻めた側も守った側も、互いの陣営に、図らずも出てしまった重傷者を思いやったといいます。
逮捕された学生の後事を慮る機動隊員と、幾度となく炎上しながらも果敢に攻め続け、ついに本丸を陥落させた機動隊員を、敵ながらあっぱれと称える学生たち。
帝大解体などと、およそ虚妄なスローガンからは見えてこない、互いの緊張関係によってのみ切りあえる仁義が、そこにはあったと言えないでしょうか。
すばらしいですね。
男が「大好き」といってやまない、歴史のピンポイントであります。
安田講堂は「解放講堂」と呼ばれ、そこには「解放放送」が流されていたと言います。最後の解放放送は、こう結ばれたそうです。
「我々の闘いは勝利だった。全国の学生、市民、労働者の皆さん、我々の闘いは決して終わったのではなく、我々に代わって闘う同志の諸君が、再び解放講堂から時計台放送を真に再開する日まで、一時この放送を中止します。」
男は寡聞にして、時計台放送が再開されたことを、聞いたことがないそうです。
男のメールフッタは、不評でした。長かったのです。
何が書いてあったのかと言いますと、実在をほぼ疑われない大王初代・崇神を暗殺しようとする企みが、山背の武埴安彦によって練られました。諸国鎮撫に向かった四道将軍の一人・大彦が、和邇坂を越えようとしたとき、企てを暴露する歌を詠う不思議な少女に出会いました。大彦は取って返し、崇神の指示を仰ぎ、武埴安彦を討滅したのでした。
この少女が詠った歌、「ミマキイリヒコはや。ミマキイリヒコはや。…」、この歌の美しさにグラッときまして、フッタに使わせてもらったのですが、本文よりも長いことがあると、苦笑やら、お叱りやら、ずいぶん物議をかもしたわけです。
そんなわけで、男はフッタを代えました。
「連帯を求めて 孤立を恐れず 力及ばずして 倒れることを辞さないが 力尽くさずして 挫けることを拒否する」。
安田講堂に大書されていたスローガンですね。
闘えぃ!負けるんは、しゃあないが、闘わんと、逃げるな!たった一人でも、闘えぃ!…と。
少しは短くなりましたでしょうか。あまり変わってないのかもしれません(笑)。
それはそうと、安田講堂から、もうすぐ半世紀ですか。攻防戦の前日、大講堂のグランドピアノが、きれいな「インターナショナル」を奏でていたと聞いたことがあります。投石を運ぶ学生たちも、盾の壁を徐々に詰める機動隊員たちも、思わず聞き惚れたとか。
あの日が遠くなったようで、男は苦いコーヒーを、一気に流し込みました。
花を愛でる男でした。男伊達に華でもあれば…と、そんなに都合よくなかったようですが(笑)。
6月下旬の誕生日前後、毎年、紫陽花に目がありませんでした。
今年は那羅山プロジェクトさんのBC付近と、明日香村柏森に、みごとな赤紫を見つけ、ご満悦のご様子でした。
毎日でも会いに行きたいらしく、雨が降ろうが、風が吹こうが、猛暑であろうが、テクテクと。
那羅山といえば、どんぐり広場。みごとな白梅の奥に、今が満開の合歓木を見つけました。これまたみごとなものです。なかなかお目にかかれません。
お目にかかれないといいますと、120年に一度ともいわれる竹の開花、見たことがなかったので「なんだろう?」と時が過ぎ、竹の花だと、めったに咲かないのだと、咲いたら竹やぶが全滅するのだと、知るにつけ驚きこのうえありませんでした。
総延長距離15kmも、山中をさまよっていますと、どこで見たのか、記憶もあいまいで、幻ならば夢で逢いたいものだと、いつのまにか闘う青年も、魅惑の中年になり果てたのかもしれません。
しばしば「巻きもの」について語った男でした。宮澤賢治の「雨ニモマケズ」、薄汚れた茶色い紙に、書き殴ったような鉛筆跡です。
男は「真筆だ!」と言います。箱書きが証拠になるようでもありませんし、今一つ根拠薄弱なのですが。
男の義理のおじいさんの遺品だったそうです。義理のおじいさんは、満鉄の社員だった、すなわち大日本帝国のスパイだったと。
関東軍の参謀であった石原莞爾が、賢治と法華経のつながりで、借金王であった賢治が無心の質に差し出したと。
石原は満州事変を起こしたのち、巻きものを満鉄に預けて帰国したと。
なんともかんとも、よどみない説明過ぎて、なんとも眉唾な話であります。
「ロマンも込みで、骨董だ!」と。
男の口先には、何か憎めないモノを感じてしまいます。
なお、巻きものは学園前教室に飾られております(^_^)。
男は怒っておりました。半世紀に渡って、怒り続けておりました。
「砦」が陥落して、はや半世紀。砦が無くとも、持ちこたえたことを誇りに思う反面、日々確実に狭まってくる包囲網に、焦燥を隠しきれなかったのでしょう。
一億挙げてファシズムの時代、男が理想とした寄るべは、小さな小さな経済誌でした。『東洋経済新報』といいました。
国際紛争を軍事力で解決することが「あたりまえ」だったあの時代、のちに戦後我が国の首班を務める主筆が「貿易立国」を提唱しました。
「拙速はイカン。知恵を絞らねばイカン。平和は尊い。どれほど豊かな未来を約束しようが、平和に対する挑戦を許さん!」
主筆の口癖が、いつのまにか、男に乗り移っていました。
男にとって現世を呪うことは、「やむにやまれぬ」至誠に根ざすものだったにちがいありません。
男はまだまだ生腐っております。
一敗地にまみれ、しばらく冷蔵庫で頭を冷やし、もう幾たびかの復活を果たすまで、雌伏することでしょう。
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