惑-冬講日記(11)

勉強の天敵、三大思い込みってものがあります。

わかるはず。できるはず。わすれてないはず…の三つです。

全く勉強していませんと、思い込むことすらできません。思い込む人々は、いちおう「やっている」のです。

「やっている」ものの、然るべき成果が出ないのは、誰でもお分かりの通り「甘い」からです。

「甘い」ならば、追い込めばよい!という議論があります。目の前で監視したり、テスト漬けにしたり…ですね。

しかしながら、それほど時を経ずして、単なる方法論の問題じゃない!と、皆さん悟られます。ここまでは正しいです。

はい、ここからが重大です。「あかん、こいつ勉強に向いてない」。これが多くの皆さんの結論です。

はたして、本当にそうでしょうか。何か大事なことを忘れていませんか。

「甘い」のは、おそらく勉強にだけ甘いのではなく、生き方が甘いのですよね。勉強を追い込んだところで、生き方は変わりません。

さっさと諦められるかたのほとんどが、生き方の問題を、勉強の方法論に矮小化している、そのことが私には気になってしかたありません。

大切なことは、勉強の本質論を棚上げするような、看過せざるべき「甘え」の構造ではなく、逃避せず大胆にメスを入れ、切り込むことではないでしょうか。

石川数学塾大阪
学園前教室・杉浦

然-冬講日記(10)

「勉強は、やりたい人と、やらざるを得ない人がするものです。誰もかれもしなければいけないものではありません。

勉強をする人は黙々とします。アクティブ・ラーニングでしたっけ?右往左往しなければ寝てしまうようなら、初めからやめておきなさい。

勉強しても報われるとは限りません。絶対的方法論など、幻想です。幻想でなければ、詐術です。

勉強結果は、悲喜こもごもです。喜んでだけいたいのも、困ったものです。

勉強に打ちのめされることも、多々あります。そこから這い上がることも含めて、勉強です。」

ひと昔前から勉強業界にいます私など、これで至極あたりまえだと思っていますが、最近はそうでもなくなってきまして戸惑っています。

「まっとうな」勉強は、いつ、どこへ行ってしまったのでしょうか。誰が、何を変えたのでしょうか。

汲めども尽きせぬ謎が湧いてくること、これもまた「勉強」ゆえなのでしょうか(笑)。

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能-冬講日記(9)

「勉強なら何もかもできるようになりました」って人がいないかわりに、「何もできないままです」って人もいません。

できることもあれば、できないこともある、人生と同じです。

問題はその捉え方です。

「できへんことだらけやん」でも悪くないですが、できることまで含めて一切合切を否定されるようで、次なるモチベーションが湧きません。

「これだけできれば、十分ね」も良いですが、安心し倒してしまって、できないことは迷宮入りでしょう。

まさに「帯に短し襷に長し」。困ったもですね。

こんな時、「右でも左でもなく前へ」進むには、どうしたら良いのでしょうか。

ポイントは「是々非々」。良いことは良い、誉める、喜ぶ。悪いことは悪い、諭す、反省。

これがまさに「まっとうな」教育です。忘れかけては思い出す、その繰り返しです。

ブレない、曲げない人生でありたいものですね。

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能-冬講日記(9)

「勉強なら何もかもできるようになりました」って人がいないかわりに、「何もできないままです」って人もいません。

できることもあれば、できないこともある、人生と同じです。

問題はその捉え方です。

「できへんことだらけやん」でも悪くないですが、できることまで含めて一切合切を否定されるようで、次なるモチベーションが湧きません。

「これだけできれば、十分ね」も良いですが、安心し倒してしまって、できないことは迷宮入りでしょう。

まさに「帯に短し襷に長し」。困ったもですね。

こんな時、「右でも左でもなく前へ」進むには、どうしたら良いのでしょうか。

ポイントは「是々非々」。良いことは良い、誉める、喜ぶ。悪いことは悪い、諭す、反省。

これがまさに「まっとうな」教育です。忘れかけては思い出す、その繰り返しです。

ブレない、曲げない人生でありたいものですね。

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段-冬講日記(8)

勉強を始める前に、皆さん不安に思われることがあります。

「どんな成果が上がるのだろうか?」

なるほど、もっともな不安です。

もっともな不安ではありますが、この不安を感じた時点で、すでに成果が見通されているのも、勉強というモノの不思議な側面であります。

勉強には段取りが必要なのです。

教材をこなす順番を決めるだけではありません。

何が何でもたどりつく「必達ライン」や、ここまでやれると万歳三唱の「目標ライン」、これ以下だったら夏らしい髪型で出直す「死守ライン」など、否が応でもがんばらざるを得ない仕組みを散りばめます。

アメとムチも必要です。

朝・昼・晩と「必達ライン」を三連続クリアしたら、おいしいモンブランケーキと紅茶(と書いた瞬間、よだれがこぼれてしまいました。失敬)などなど。

まっしぐらに勉強することは、ヤミクモと同義ではありません。

獲得できるであろう成果に、とらぬ狸の横恋慕せず、成果への道筋をしっかり見通しておくことこそが大事なことだと思われませんか。

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段-冬講日記(8)

勉強を始める前に、皆さん不安に思われることがあります。

「どんな成果が上がるのだろうか?」

なるほど、もっともな不安です。

もっともな不安ではありますが、この不安を感じた時点で、すでに成果が見通されているのも、勉強というモノの不思議な側面であります。

勉強には段取りが必要なのです。

教材をこなす順番を決めるだけではありません。

何が何でもたどりつく「必達ライン」や、ここまでやれると万歳三唱の「目標ライン」、これ以下だったら夏らしい髪型で出直す「死守ライン」など、否が応でもがんばらざるを得ない仕組みを散りばめます。

アメとムチも必要です。

朝・昼・晩と「必達ライン」を三連続クリアしたら、おいしいモンブランケーキと紅茶(と書いた瞬間、よだれがこぼれてしまいました。失敬)などなど。

まっしぐらに勉強することは、ヤミクモと同義ではありません。

獲得できるであろう成果に、とらぬ狸の横恋慕せず、成果への道筋をしっかり見通しておくことこそが大事なことだと思われませんか。

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迷-冬講日記(7)

どうしたら良いのか、分からなくなってしまったとき、人は迷います。迷える勉強は、その最たるものです。

勉強目標が変わりそうになったとき、勉強方法を変えようかと思ったとき、誰にも経験があることでしょう。

まっしぐらに勉強することは、確かにすばらしいことです。しかしながら、迷ってはいけないわけではありません。

迷うには迷うだけの事情があるのでしょう。事情をスルーしてしまって、あとから「しまった!」と思わないとも限りません。

むしろ、そう思う可能性が大いにあるとも、過去の経験から強く感じられます。

私は迷ったら、迷った通りにやってみることをお勧めしています。うまくいけばシフトチェンジすると良いのですし、まずかったら元に戻せばいいだけです。

私たち人類に限らずとも、およそあらゆる生命体は、そのように進化してきました。

突然変異は偶然ですが、適者生存は必然です。偶然迷い始めたことが、新たな一歩を拓くには、とりあえずやってみることが大事なのです。

迷うことは忌むべきことではなく、逆に歓迎されるべきことではないでしょうか。

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極-冬講日記(6)

勉強をできるようになりたい人は、中途半端にやっているとうまくいきません。

中途半端な人のほとんどが、「もお、こんなもんで、エエやろ?」と、ひとりよがりな基準を設定しています。

「半分も覚えたから、エエやろ」とか、「四分の三まで解いたからエエやろ」とか、「あとは解の吟味だけやし、エエやろ」とか。

なぜダメなのか、お分かりでしょうか。

「半分も覚えた」なかからだけ出題されれば、「四分の三」解いたところまでで満点もらえれば、「解の吟味」をしてみたところで何事も起きなければ、ノーブロブレムなのかもしれません。

しかしながら往々にして、こんな自己中心野郎こそ、運命の女神に後ろ足で蹴られるのです(笑)。

放っておいた「あと半分」から出題されない保証は無く、「あと四分の一」解いてみたら、実は間違った方程式を立てていた、「解の吟味」をしたら妥当する解がアリマヘンでした…などなど、悲劇は忘れたころに起きるものですね。

中途半端は罪です。やり始めてしまったなら、ゴチャゴチャ言わずに極めましょう。

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汗-冬講日記(5)

本気で勉強しますと、脳みそが汗をかきます。脳が「疲労」するということです。

勉強をできるようになりたいと思う人は、このことを嫌がってはいけません。

たとえば何かを「覚えよう」と思う時。ボケ~と見ているだけでは、眠くなるだけで脳は働きません。

手を動かして、口に出してみて、書けないものを何度も繰り返し書いて、脳が疲れたころ、脳みそに刻み込まれるのです。

出題を図に表さなければ、解けそうもない時。目前に書いているだけでは、すぐに夢幻の如く消え去り、やはり解けないでしょう。

あんな図かな、こんな図かなと、あれこれ書き殴り、うまく使えたものを常に使うようになる、それこそ脳の疲弊が報われる瞬間です。

疲労困ぱいした脳は、深夜ともなると、まるで消灯時間のように、カシャっと失神します。

これを喜びと感じられる人が、できるようになる人なのです。

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衝-冬講日記(4)

人を勉強に向かわせるもの、それは人の心のありようです。

「モチベーション」といいますと、なにやら格好良すぎますから、私は「衝動」と称しております。

衝動さえあれば、どんな衝動でも、勉強という実行行為に役立つ度合いに大差ないであろうと、長い間漠然と考えてきましたが、どうやらまちがいであることがわかってきました。

観察と検証を繰り返してみましたら、衝動には三種類あることがわかったのです。

まず、最低限持つべき衝動。「勉強せざるを得ない」と覚悟すること、少なくともそこまで追い込まれることです。

次に、多くの皆さんが標準的に感じている衝動。「勉強ができるようになりたい」とか、「勉強ができると、とてつもなく嬉しい」と明るい希望を持つこと、少なくともその方向のベクトルを持つことです。

最後に、望みうる最上級の衝動。「将来の野望を実現するレールは、勉強に敷きつめられている」と悟ること、少なくともその自覚に満ちることです。

これらは純然とグレードが異なる衝動であり、より高い次元の衝動が、より深い行動原理を形成するものです。

少し難しかったでしょうか。簡単に要約しますね。

「勉強せなあかんと思わんかたら、勉強できんの、あたりまえやね。やらされてするより、自分のためにしいや。そのほうが上達するで」。

な~んだ、初めから簡単に言ってくださいよ!ってな皆さん、心のグレードが低いです。少し難しいことを言われても、飛び上がって飛びつく気概を持ちましょう。

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