こんにちは。石川数学塾大阪・学園前教室の杉浦です。
もうすぐ配布の学園前バージョン春チラシ+春期講習ウェルカムメッセージ(+申込書)、学園前教室にて好評先行配布中です。
ご自由にお持ちください。
※大阪通信ファンの皆様、ごめんなさい。今週は「春セット」を配布しますので、大阪通信お休みです。来週には復活します。「Zレポート」掲載予定です。何のことでしょうか?楽しみにお待ちください。
学園前教室・杉浦
大阪通信 Vol.24 配布開始しました。「合格おめでとう!」、その一言に込められたこだわりとは…?
今回も立ち読みしてみましょう。
「おめでとう。通ると思っていたよ。」
私は生徒の合格報告に必ずそう言って応えます。
「まさか?ホントに通ったん?」と驚くこともなく、「よかったなぁ、おめでとう!おめでとう!おめでとう!」と狂喜することもなく。
あまりに淡白過ぎますでしょうか?いえいえ、私はこれで良いと思っています。
なにやらしっとりとした書き出しですね。このあと、どうなるのでしょうか。
大阪通信 Vol.24、石川数学塾大阪・学園前教室にて好評配布中です。ご自由にお持ちください。
なお、中入倉庫に大阪通信のバックナンバーが揃っています。前号の大阪通信 Vol.23、倉庫に新収納しました。見逃した!というみなさん、ご覧ください。
師匠はお酒が大好きでした。当時私もお酒が大好きでした。
なんだかんだと理由をつけては、コンパが開かれました。
師匠は酔っ払うと、何かと「F君」という学部生に語りかけました。時には涙ぐみながら語りかけていました。
師匠は泣き上戸なのだと思っていました。あまり深く考えていませんでした。
そのうち奇妙なことに気づきました。私は「F君」という学部生に会ったことがなかったのです。
奇妙なことは続きました。師匠は先輩研究者Nさんに、「F君」と呼びかけていました。学部生T君にも「F君」、しまいには私にも「F、F」と呼びかけ始めました。
「師匠!しっかりしてください」と抱え起こした時に、シーンと静まり返った雰囲気に気づきました。
「杉浦君、事情はあとでね」。先輩研究者のMさんが、耳打ちしてくれました。
MさんからF君のフルネームを聞いて思い出しました。ちょうど一年少し前(当時)、京大建学以来初めて、内ゲバで死者が出ました。白昼、情宣のスキを狙われた被害者こそ、F君だったのです。
事件ののち、師匠は泣き続けていたのだそうです。一年たっても思い出すと、人目もはばからず泣いているのだそうです。
弟子の痛みをわかってくれる師匠でした。
ヤンチャせずに、師匠を悲しませずに、慎み深く生きていこうと、心から思わせてくれました。
小生いつの間にか年を取ったのでしょう。立居振舞が、ますます師匠に似てきました。
まだまだ逆立ちしても師匠には追いつけませんが、精進していきたいと、ずっと思い続けています。
(完)
ある日の深夜、先輩研究者のもとに一本の電話がかかってきました。
「Yか?おまえ、プロレスのことどう思う?」
「あれはスポーツではないと思います。エンターテイメント・ショウです」
「聞き捨てならんな」
「何かお気にさわりましたか?」
「血ぃ、流しとるやないかぁ!」
「台本通りでしょうね」
「痛そうやないかぁ!」
「商売のうちでしょう」
「おまえ、生き方が間違っとる。破門じゃあ!」
電話がガチャリと切れました。
先輩研究者Yさんは、いったい何が起きたのか、しばらく把握できずに困ったそうです。
事態が把握できたら、今度は師匠の尋常ならざる怒りが、己に降りかかってきたことに困ったそうです。
困っていてもどうしようもないと気づいたYさんは、比叡山の中腹までタクシーを飛ばして師匠に謝りにいかれたそうです。
「例えショウでも、台本通りでも、商売でも、流血したら痛い、辛いに決まっとる。多少の論文が書けるコザカシイ研究者である前に、人の痛みが分かる人間であれ」
師匠は、Yさんに諭されたそうです。
小生今日まで、論文執筆マシンのような研究者に、たくさんお目にかかりました。師匠が最も忌避する人種でした。
師匠の理想は、人間らしくある、まさに血のかよった学問だったのではないでしょうか。
(続く…)
大阪通信 Vol.23 配布開始しました。
このブログにて、(その6)まで公開済のエッセー「師匠の思い出」を、大阪通信で先行完結いたします。
少し、立ち読みしてみましょう。
「【その8】
師匠はお酒が大好きでした。当時私もお酒が大好きでした。
なんだかんだと理由をつけては、コンパが開かれました。
師匠は酔っ払うと、何かと「F君」という学部生に語りかけました。時には涙ぐみながら語りかけていました。
師匠は泣き上戸なのだと思っていました。あまり深く考えていませんでした。
そのうち奇妙なことに気づきました。私は「F君」という学部生に会ったことがなかったのです。
…(つづく)」
何やら謎めいた話になってきましたね。
大阪通信 Vol.23、石川数学塾大阪・学園前教室にて好評配布中です。ご自由にお持ちください。
京大全共闘…泣く子も黙るとか、さわらぬ神に…なんて言われた集団でした。時計台本部構内を堅固なバリケードで封鎖していました。
全共闘幹部と京大当局の秘密交渉、そもそもそのようなものがあったのかどうか、今となってはわかりませんが、その場で交わされたという謎のやり取りが、半ば都市伝説となって独り歩きしています。
幹部「封鎖を解いても良い。ただし、条件がある。〇〇(私の師匠です)総長でいってくれ」
当局「呑めないことはない。持ち帰って検討したい」
幻の「〇〇総長案」というものです。もしも妥結していましたならば、全共闘側からの自主的な封鎖解除という、他大学には一つもなかった珍しい解決策ができあがるところでした。国家権力の横やりさえなければ…。
官僚「全共闘と話し合い?全共闘が人事介入?断じてまかりなら~ん!!!」
泣く子を黙らせるような怖~いお兄さんたちからも、たいへん慕われていた師匠でした。しかし文部官僚の受けは良くなかったようです。
京大闘争が武力「解決」されるその時を、師匠は遠く米国の虚空に迎えました。一年間の「遊学命令」、悪法もまた法なりと達観された師匠でした。
教授会に乱入してきたヘルメット・ゲバ棒学生に、「学生諸君、意見を聞こうじゃないか」と渡り合い、絶対主義天皇制なる奇妙な近代史パラダイムを歯牙にもかけず、「むしろ、天皇制資本主義」と看破される、こんな個性あふれる方だったからこそ、主義主張や立場を超えてマイノリティからも愛される師匠だったのでしょう。
懐の深い師匠でした。
(続く…)
師匠は、学問・研究に厳しいかたでした。ある日のゼミの事、先輩研究者Tさんの横で、学部生が寝ていました。
師匠の怒号が、教室に響き渡りました。
「こらあ!T!…横で寝とる奴を殴って起こせ!」
何かにつけて優しいTさんは、揺さぶって起こしました。
「こらあ!学生!…発表者に失礼やろ。顔洗ってこいや!」
私も思わず目が覚めたうちの一人でした。
かく言う私も、かつての持病「ぎっくり腰」のせいで論文原稿が仕上がらなかったとき、思いっきり叱られました。
あと数ページのところで、ギクリとやってしまったのです。
案の定、師匠から電話がかかってきました。
「杉浦か?論文が出とらん!」
「先生、申し訳ありません。ぎっくり腰で、机に向かえません。」
「論文が出とらん!」
「はい、ぎっくりご…」
「論文が出とらん!」
「はい、書きますぅ~(泣き)。待っててください~(大泣き)」
コルセット三段重ねで机に向かいました。それでも痛くて、鎮痛剤をカジリました。やっと書きあがった論文を持って、東大路を転がるように、百万遍まで急ぎました。
師匠の研究室に倒れこみました。師匠はものも言わずに一気に読み通されました。そして…。
「腰は痛むか?」
「はい。」
「ホンマ、よう頑張ったな。たった(400字詰め原稿用紙)50枚(の論文)に、何冊読んだんや?」
「300冊です。」
「院試(大学院入試)に出しても、これなら通る。安心したわ。ゆっくり休みや。」
時計の針がもうすぐ23時を回るところでした。そろそろ底冷えし始めた京都の冬、比叡平のお住まいに帰る終バスを放っても、愚かな学生につき合っていただける、そんな素晴らしい師匠に巡り合えた喜びを、つくづく感じた私でした。
叱り上手な師匠でした。それはきっと、褒め上手でもあったからですね。
(続く…)
モグラ生活が長引きますと、お日様がだんだんとオックウになってきます。一週間に一度のゼミが、癒しの場になってきます。
そんなある日のゼミにて…、私はとんでもないことに気づきました。
黙々と一生懸命勉強しているはずのゼミですが、意外と不規則発言が多かったのです。
先輩研究者が「我が国の大正時代における社会教育官僚による『社会』の発見」(←題名だけでも理解するのに一苦労ですね)について報告されている時でした。
たまたま横に座っていた師匠が、何やらレジュメの一ヶ所に反応しました。
「そやねん。大ブルジョワジーやったんや、わしの祖父さん。けどなぁ、遺産が一銭も残ってへんねん。なあ、杉浦~。なんでやねん?」
「先生、遺産なんてアテにしちゃいけませんよ。」
「けどなぁ、コレクションまで残ってんねんで。所有権、わしにはないけどな。」
「じゃあ、先生こそ、ここにいる弟子たちにガッポリ『美田』を残してくださいね。」
「買いかぶりすぎや。一番アテにならんの、たぶんわしやで。」
「え?そうだったんですか?」
いつのまにか大声で談笑してしまいました。「先生!杉浦君!静粛に願います!」はい、師匠と共に先輩研究者から睨みつけられました。
どうやら師匠はレジュメの先読みをしていたらしく、たまたまその片隅に、明六社のメンバーでもあった開明派インテリゲンチャにして、大阪の大手新聞社社主でもあったおじいさんの名前を発見し、懐かしさのあまり騒ぎ出してしまったらしいのです。
師匠はまるで子供のようにハシャぐ人でもありました。
(続く…)
モグラ生活が長引きますと、お日様がだんだんとオックウになってきます。一週間に一度のゼミが、癒しの場になってきます。
そんなある日のゼミにて…、私はとんでもないことに気づきました。
黙々と一生懸命勉強しているはずのゼミですが、意外と不規則発言が多かったのです。
先輩研究者が「我が国の大正時代における社会教育官僚による『社会』の発見」(←題名だけでも理解するのに一苦労ですね)について報告されている時でした。
たまたま横に座っていた師匠が、何やらレジュメの一ヶ所に反応しました。
「そやねん。大ブルジョワジーやったんや、わしの祖父さん。けどなぁ、遺産が一銭も残ってへんねん。なあ、杉浦~。なんでやねん?」
「先生、遺産なんてアテにしちゃいけませんよ。」
「けどなぁ、コレクションまで残ってんねんで。所有権、わしにはないけどな。」
「じゃあ、先生こそ、ここにいる弟子たちにガッポリ『美田』を残してくださいね。」
「買いかぶりすぎや。一番アテにならんの、たぶんわしやで。」
「え?そうだったんですか?」
いつのまにか大声で談笑してしまいました。「先生!杉浦君!静粛に願います!」はい、師匠と共に先輩研究者から睨みつけられました。
どうやら師匠はレジュメの先読みをしていたらしく、たまたまその片隅に、明六社のメンバーでもあった開明派インテリゲンチャにして、大阪の大手新聞社社主でもあったおじいさんの名前を発見し、懐かしさのあまり騒ぎ出してしまったらしいのです。
師匠はまるで子供のようにハシャぐ人でもありました。
(続く…)
自慢するわけではありませんが、いざ「勉強しよう」と決心した私は、たしか初回のゼミで配布された「参考文献」(「必読文献」だったかもしれません)のリストを発掘し、猛然と読み始めました。
読み始めてみて、おそらく初めてわかったことがたくさんありました。
知らなかったことがたくさんありました。高校の日本史の教科書から「教育史」を拾い集めて、せいぜい二十ページ。なんてこたぁ、あれへんわい…と考えていた私が浅はかでした。
知らないことを知っていくと、どんどん面白くなっていくのです。論文を一本読むごとに参照論文を三本読みたくなりました。単行本を一冊読むたびに、参考文献を五冊読みたくなりました。
知れば知るほど、生意気にも書いてみたくなりました。書いては消し、消しては書き、そうこういている間に、先輩研究者とも仲良くなり、先達諸賢の明晰なる頭脳に驚き、多様な興味関心に大いに影響されました。
いつしか京都大学本部構内附属図書館の地下最奥に、文献を渉猟する日々が始まったのです。
(続く…)