あの頃のこと(その4)

「杉浦さん?、文章読ませてもらったよ。」

「何度言ったら、わかるんですか。あれは、私が書いたモノじゃありません。」

「そのセリフ、わしは初めて聞いたけどな。誰が書こうが、書かれようが、わしらには関係ない。ところで、おまえさん、書けるんか?」

「そうですね、筆者かと疑われる程度の作文能力ですが…。」

「十分だ。早速だけど、取りかかってもらうわ。趣意書・企画書、FAXで流すし…。締切厳守やで。」

いきなりマフィアの会話じみてますね。20年ほど前、某大手塾を退職しました私に、かかってきた電話です。

勘どころのよろしい方は、すでにお気づきでしょうが、私は売文屋にリクルートされたのです。どうやらきっかけになりましたのは、「文章」=「書いたモノ」らしいですね。

事件のにおいがしますね。実は私が退職いたします際に、ひと悶着あったのです。

「私は、自分の意識的生涯の43年間というもの革命家でありつづけたし、そのうち42年間はマルクス主義の旗のもとで闘った」(レオン・トロツキー「遺書」)

トロツキー閣下ほどではありませんが、私もずっと現実主義者であり、唯物論者でした。塾業界生活に引き合わせて申しますなら、汗水たらしてドロドロになって働く教室現場こそが最も尊く、その生き血を吸って、くだらない観念論垂れる奴らなんざぁ、下の下の下と考えておりました。

ところが組織が不要に大きくなって、脂肪太りしていきますと、勢い吸血生物も発生し、発生したからには折り合って生きていかねばならないことが増えてくるのです。

何とか住み分けて域内平和を保つのもつかの間、一度激突しますとお互い引くに引けないところまで来てしまいます。

そんな時に、タイミング悪く、事件が起きてしまいました。

京阪神(奈良には統一日程すら無かったころです)の中学入試統一解禁日が大幅に前倒しされることが分かった某年某月某日、「まあ、まず、(統一日繰り上げは)ないやろぅ…」などとタカをくくっていた小生は、カリキュラム表を修正せざるを得ないという窮地に追い込まれていました。どういじっても授業時間の絶対数が足りないところは、休日を返上して運用しようとも考えました。

ところが悲しいことに、「窮地と感ずれば、まず逃げる奴」とか、「何の根拠もなく、なんとかなるさ!と信じる奴」とか、挙句の果てに「既にスキーの予約を9か月後に入れているから、考えないことにする、と宣言する奴」など、およそ下の下の下の下の下の下(しつこいですか?)がいたものですから、およそ精根尽き果てました。

「残念やが、決裂や!恨みっこ、無しやで」

これが最後の言葉でした。受話器を下ろしたら、電話が一台壊れ、壊れた電話の横に責任者宛て「辞表」を置き、「セイセイしたわい!」と去りました。本当に、まぎれもなく、迷いもなく、清々したのです。

念願の「お百姓」になれる喜びに満ち、さっそくレンタル畑を物色していた私に、先日退職しました某大手塾取締役F氏からコンタクトがありました。「約束が違う。〇〇のお目付け役は誰が引き継ぐのか?」。

「しまった!」と思いました。怒りの余りきれいさっぱり忘れていたのですが、先年「暴力事件」を起こして懲戒免職になりかけていた〇〇先生への一方的処分に断固反対して、本社にバリケードストライキを通告した際、話しあえばあうほどに仲良くなってしまったF取締役との約束…たしかにありました。

「○○の職場復帰という杉浦の要求は呑もう。ただし杉浦が責任を持って再研修すること。社内処分はすべて私が被る。任せなさい!」。

小生はFさんの男気に惚れました。バリケードを解除しました。

Fさんと一度だけ話し合うことにしました。その話し合いの場で、小生の退職後に小生の文体をまねた怪文書が流れていること、怪文書の内容がカリキュラム表とは何の関係もない下賤の話題であること、そのほかモロモロを知ったのです。

ガーンときました。もともと誰に認めてもらいたくてやってきた仕事ではありませんし、誰それ関係なくやりたいことは必ずやりますし、その不徳ゆえに怪文書の筆者と思われたのなら、わからないこともありません。

しかしそれならば、怪文書なるものは正々堂々と私を批判すべきではありませんか。え?回りくどいくらいに複雑な利害関係渦巻いてこそ怪文書!ですって?はい、あなたならきっと書けましょう。私には絶対に書けませんが…。

現実逃避モードになった私は、長いこと読み止しだった廣松渉を読みふけりました。冒頭の電話がかかってきましたのは、そんな時だったのです。(続く)

学園前教室・杉浦

あの頃のこと(その4)

「杉浦さん?、文章読ませてもらったよ。」

「何度言ったら、わかるんですか。あれは、私が書いたモノじゃありません。」

「そのセリフ、わしは初めて聞いたけどな。誰が書こうが、書かれようが、わしらには関係ない。ところで、おまえさん、書けるんか?」

「そうですね、筆者かと疑われる程度の作文能力ですが…。」

「十分だ。早速だけど、取りかかってもらうわ。趣意書・企画書、FAXで流すし…。締切厳守やで。」

いきなりマフィアの会話じみてますね。20年ほど前、某大手塾を退職しました私に、かかってきた電話です。

勘どころのよろしい方は、すでにお気づきでしょうが、私は売文屋にリクルートされたのです。どうやらきっかけになりましたのは、「文章」=「書いたモノ」らしいですね。

事件のにおいがしますね。実は私が退職いたします際に、ひと悶着あったのです。

「私は、自分の意識的生涯の43年間というもの革命家でありつづけたし、そのうち42年間はマルクス主義の旗のもとで闘った」(レオン・トロツキー「遺書」)

トロツキー閣下ほどではありませんが、私もずっと現実主義者であり、唯物論者でした。塾業界生活に引き合わせて申しますなら、汗水たらしてドロドロになって働く教室現場こそが最も尊く、その生き血を吸って、くだらない観念論垂れる奴らなんざぁ、下の下の下と考えておりました。

ところが組織が不要に大きくなって、脂肪太りしていきますと、勢い吸血生物も発生し、発生したからには折り合って生きていかねばならないことが増えてくるのです。

何とか住み分けて域内平和を保つのもつかの間、一度激突しますとお互い引くに引けないところまで来てしまいます。

そんな時に、タイミング悪く、事件が起きてしまいました。

京阪神(奈良には統一日程すら無かったころです)の中学入試統一解禁日が大幅に前倒しされることが分かった某年某月某日、「まあ、まず、(統一日繰り上げは)ないやろぅ…」などとタカをくくっていた小生は、カリキュラム表を修正せざるを得ないという窮地に追い込まれていました。どういじっても授業時間の絶対数が足りないところは、休日を返上して運用しようとも考えました。

ところが悲しいことに、「窮地と感ずれば、まず逃げる奴」とか、「何の根拠もなく、なんとかなるさ!と信じる奴」とか、挙句の果てに「既にスキーの予約を9か月後に入れているから、考えないことにする、と宣言する奴」など、およそ下の下の下の下の下の下(しつこいですか?)がいたものですから、およそ精根尽き果てました。

「残念やが、決裂や!恨みっこ、無しやで」

これが最後の言葉でした。受話器を下ろしたら、電話が一台壊れ、壊れた電話の横に責任者宛て「辞表」を置き、「セイセイしたわい!」と去りました。本当に、まぎれもなく、迷いもなく、清々したのです。

念願の「お百姓」になれる喜びに満ち、さっそくレンタル畑を物色していた私に、先日退職しました某大手塾取締役F氏からコンタクトがありました。「約束が違う。〇〇のお目付け役は誰が引き継ぐのか?」。

「しまった!」と思いました。怒りの余りきれいさっぱり忘れていたのですが、先年「暴力事件」を起こして懲戒免職になりかけていた〇〇先生への一方的処分に断固反対して、本社にバリケードストライキを通告した際、話しあえばあうほどに仲良くなってしまったF取締役との約束…たしかにありました。

「○○の職場復帰という杉浦の要求は呑もう。ただし杉浦が責任を持って再研修すること。社内処分はすべて私が被る。任せなさい!」。

小生はFさんの男気に惚れました。バリケードを解除しました。

Fさんと一度だけ話し合うことにしました。その話し合いの場で、小生の退職後に小生の文体をまねた怪文書が流れていること、怪文書の内容がカリキュラム表とは何の関係もない下賤の話題であること、そのほかモロモロを知ったのです。

ガーンときました。もともと誰に認めてもらいたくてやってきた仕事ではありませんし、誰それ関係なくやりたいことは必ずやりますし、その不徳ゆえに怪文書の筆者と思われたのなら、わからないこともありません。

しかしそれならば、怪文書なるものは正々堂々と私を批判すべきではありませんか。え?回りくどいくらいに複雑な利害関係渦巻いてこそ怪文書!ですって?はい、あなたならきっと書けましょう。私には絶対に書けませんが…。

現実逃避モードになった私は、長いこと読み止しだった廣松渉を読みふけりました。冒頭の電話がかかってきましたのは、そんな時だったのです。(続く)

学園前教室・杉浦

あの頃のこと(その3)

もう5年経ったんだなと、感慨を覚えます。2009年2月25日、小生の親父が永眠いたしました。

「ちょっとした心不全」だったはずが、心臓大動脈弁硬化症と判明し、弁の置換手術まではうまくいったんですが、術後に日和見感染したMRSAが致命的でした。きっちり闘病百日でした。

救急搬送と聞いて、急いで愛知へ、車で3時間、毎年恒例の京大見学ツアー(11月23日)が中止になりました。毎日曜日ごと、実家と病院を行ったり来たり、荷物をピストン輸送しました。日曜深夜に愛知をあとにして、奈良に帰ってくるのが月曜早朝、午後1時からお仕事です。

ICUから念願の個室へ親父が移った日、23時愛知発、26時奈良着、10分後に病院から急報、「再挿管が必要な状態。許可願う」とのこと。26時30分奈良発。29時30分愛知着。ICUに帰る手続き。おふくろを落ち着かせて、妹と交代して、33時30分、仮眠開始。35時30分、仮眠終了。病院という戦場を離脱、奈良へ、教室へ、入試直前の戦場へ。

「親父が死ぬはずがない」と、何の根拠もなく思っていました。たたき上げの新聞記者でした。「広告取り」と自嘲していましたが、記事を書くことが何よりも好きでした。終戦の玉音放送を聞いた闇市世代でした。偉そうな軍国野郎が、一夜にして平和万歳を叫びだす無節操を、終生忘れませんでした。権威・権力がとにかく嫌い、学校教師を木端官僚と笑い飛ばしました。

「将来の希望は?」と聞かれて、「長嶋茂雄!」と真顔で答えるアホ息子(…が、私です)に、いつも微笑んでいました。一度だけ「渡世の義理」(…おふくろのさしがねになることです)で叱られました。小学校の漢字テストと計算テストで再追試をくらった息子は、「旧7帝大」の名前が順番に全部言えるまで覚えさせられました。「世の中、こうなっとる。覚えとけ!」。学歴社会の厳しさを、親父に教わりました。

そんな親父が死ぬはずな…くはない…かもしれない、と思いました。喉を切開して挿管中、筆談しかできなくなっていた親父が書きました。「迷惑をかける。申し訳ない。忸怩たる思いだ」。おふくろに見せないように、とっさに隠しました。

おふくろが聞いていた親父の「遺言」は、驚くべきものでした。「葬儀不要。坊主不要。焼香不要。戒名不要。墓不要」。およそ現実に折り合える内容ではありませんから、さあ、私の出番です。「葬儀」はしませんでしたが、「お別れ」を言うために皆さん集まってこられました。「読経」の代わりにテレサ・テンの「別れの予感」が流れました。皆さん、焼香の代わりに、1本ずつ「献花」されました。戒名なし、俗名のままでした。墓はおふくろが自分用に建てました。「親父も入りたければ、ど~ぞ」だそうです。

親父が嫌いだった家紋を、私が変えてしまいました。楠木正成公が後醍醐天皇から賜ったという菊水紋にしました。母方の先祖が古くヤマト大三輪に、オオモノヌシに奉げる神酒を造り、父方の先祖が後醍醐天皇の挙兵に呼応、山城笠置の山にて六波羅兵相手に奮戦した三河源氏・足助重範公に随伴した、まさに「尊皇の家系」…と、まあ私も、歴史学者…の末席に加えていただけますでしょうか(笑)。

もう5年経ったのに、いつもどこかで親父に見られているような気がします。「孝行のしたい時分に親はなし」。息子というものは、いつまでたっても、とてつもなく大きかった親父の背中を見続けるものなのかもしれません。(続く)

学園前教室・杉浦

あの頃のこと(その3)

もう5年経ったんだなと、感慨を覚えます。2009年2月25日、小生の親父が永眠いたしました。

「ちょっとした心不全」だったはずが、心臓大動脈弁硬化症と判明し、弁の置換手術まではうまくいったんですが、術後に日和見感染したMRSAが致命的でした。きっちり闘病百日でした。

救急搬送と聞いて、急いで愛知へ、車で3時間、毎年恒例の京大見学ツアー(11月23日)が中止になりました。毎日曜日ごと、実家と病院を行ったり来たり、荷物をピストン輸送しました。日曜深夜に愛知をあとにして、奈良に帰ってくるのが月曜早朝、午後1時からお仕事です。

ICUから念願の個室へ親父が移った日、23時愛知発、26時奈良着、10分後に病院から急報、「再挿管が必要な状態。許可願う」とのこと。26時30分奈良発。29時30分愛知着。ICUに帰る手続き。おふくろを落ち着かせて、妹と交代して、33時30分、仮眠開始。35時30分、仮眠終了。病院という戦場を離脱、奈良へ、教室へ、入試直前の戦場へ。

「親父が死ぬはずがない」と、何の根拠もなく思っていました。たたき上げの新聞記者でした。「広告取り」と自嘲していましたが、記事を書くことが何よりも好きでした。終戦の玉音放送を聞いた闇市世代でした。偉そうな軍国野郎が、一夜にして平和万歳を叫びだす無節操を、終生忘れませんでした。権威・権力がとにかく嫌い、学校教師を木端官僚と笑い飛ばしました。

「将来の希望は?」と聞かれて、「長嶋茂雄!」と真顔で答えるアホ息子(…が、私です)に、いつも微笑んでいました。一度だけ「渡世の義理」(…おふくろのさしがねになることです)で叱られました。小学校の漢字テストと計算テストで再追試をくらった息子は、「旧7帝大」の名前が順番に全部言えるまで覚えさせられました。「世の中、こうなっとる。覚えとけ!」。学歴社会の厳しさを、親父に教わりました。

そんな親父が死ぬはずな…くはない…かもしれない、と思いました。喉を切開して挿管中、筆談しかできなくなっていた親父が書きました。「迷惑をかける。申し訳ない。忸怩たる思いだ」。おふくろに見せないように、とっさに隠しました。

おふくろが聞いていた親父の「遺言」は、驚くべきものでした。「葬儀不要。坊主不要。焼香不要。戒名不要。墓不要」。およそ現実に折り合える内容ではありませんから、さあ、私の出番です。「葬儀」はしませんでしたが、「お別れ」を言うために皆さん集まってこられました。「読経」の代わりにテレサ・テンの「別れの予感」が流れました。皆さん、焼香の代わりに、1本ずつ「献花」されました。戒名なし、俗名のままでした。墓はおふくろが自分用に建てました。「親父も入りたければ、ど~ぞ」だそうです。

親父が嫌いだった家紋を、私が変えてしまいました。楠木正成公が後醍醐天皇から賜ったという菊水紋にしました。母方の先祖が古くヤマト大三輪に、オオモノヌシに奉げる神酒を造り、父方の先祖が後醍醐天皇の挙兵に呼応、山城笠置の山にて六波羅兵相手に奮戦した三河源氏・足助重範公に随伴した、まさに「尊皇の家系」…と、まあ私も、歴史学者…の末席に加えていただけますでしょうか(笑)。

もう5年経ったのに、いつもどこかで親父に見られているような気がします。「孝行のしたい時分に親はなし」。息子というものは、いつまでたっても、とてつもなく大きかった親父の背中を見続けるものなのかもしれません。(続く)

学園前教室・杉浦

大阪通信 Vol.28 配布開始しました -「現在読破中!」掲載開始しました

大阪通信 Vol.28 配布開始しました。「現在読破中!」って、何でしょうか?。ちょっと覗いてみましょう。

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小生は硬軟織り交ぜて3冊程度併行読みしていることが多いです。折にふれて「現在読破中!」の3冊(くらい)を紹介します。「おもしろそうだなぁ」と思われたら、実際手に取ってお読みになってみてください。

1)上原和『斑鳩の白い道のうえに 聖徳太子論』朝日文庫

いきなり手に入りにくくなりつつある本で申し訳ありません。けっこう古本屋の横積みになっていますがAmazonの古書でも容易に手に入ります。諸社から文庫化されていますが中身は一緒ですので、比較的きれいなものを手に入れるとよろしいでしょう。小生などは斑鳩に拠点を構えて「上宮王家」を名乗った新進官僚たちを、後世「聖徳太子」と呼びならわしたに過ぎないのではないかと思っていますので、多少の違和感を禁じ得ずも、さすがにベストセラーとなった著者の筆致の妙…に酔いしれております。

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…どうやら読書日記のようです。読後感想文ではなく、読破同時進行の紹介文らしいです。珍しい試みですね。読みたくなったら、…仕掛けは成功?ですか。

大阪通信 Vol.28、ブログに先行掲載しました「あの頃のこと」後追いと合わせて、石川数学塾大阪・学園前教室にて好評配布中です。ご自由にお持ちください。

なお、中入倉庫に大阪通信のバックナンバーが揃っています。先週の 大阪通信 Vol.27(春期歩こう会へのお誘いです)、今週の 大阪通信 Vol.28も、GW休暇前最終号につき倉庫に新収納しました。みなさん、ご覧になってください。

学園前教室長・杉浦

あの頃のこと(その2)

もう5年ほど前になりますでしょうか。妻と連れだって、奈良ファミリーで夕食を。「どの店にしようか?」と、相談していた矢先、「先生、お久しぶりです!」、懐かしい元気な声に、おもわず振り返りました。20年ほど前に授業を担当したYさんでした。

「今日は先生にお会いできそうな気がしていたんですよ」と、これまた懐かしい声。Yさんのお母様も、いっしょにいらっしゃいました。三人で輪っかになりながら、「久しぶりの三者懇談ですね」。大声で笑ってしまいました。

「あれから、どうしてました?」。さっそく卒業後の足跡を聞く、せっかちな私です。「大教大平野に通していただいたのは…先生でしたよね。先生、私たち中3の担任しながら、たしか小6の担任もされて、超人とかって言われてましたでしょ。私と仲良かったMさん、先生、覚えてはります?高校、別々でしたけど、富山大の医学部、ご一緒させていただいて。私は今、産婦人科のお医者さんやってます。大阪の勤務医です」。私以上にせっかちですが、みごとに要点のみ、過不足なく答えるところが、さすがYさん、全然変わっていません。

「たしか、産科の先生って、どんどん減ってるんですよね。激務だからって」と、言うが早いか、反論も瞬時に返ってきます。「だからこその社会奉仕、社会貢献と存じてます。」いやはや、立派です。青は藍よりいでて、藍よりも青い…そうですが、焦げ茶色のドブ川のような小生の教室から、凛として美しい白鳥が飛び立ったような気がしました。

さて、さっきから気になっていたのですが、三人の車座を、ひたすらグルグル反時計回りにまわり続ける元気な坊やが一人。「先生、申し遅れました。息子のキョウタロウです」。「私にとっては、孫みたいなもんやね。おい、キョウタロウくん、元気ええなあ!」。

相好崩して、しっかりお爺ちゃん状態の私に、Yさんから衝撃的な話を聞こうとは夢にも思っていませんでした。

「先生、数学、理科、ご担当でしたよね。勉強しっかり教えていただきまして、ありがとうございました。」

(小生独白)…はい、胃に穴が開くほど、一生懸命やりました。

「けれど、教科内容は何も覚えていません。わかりやすい解説だってことだけ覚えています。」

(小生独白)…おいおい、物忘れ激しいんとちゃうか?

「先生が毎授業必ず言われたこと、忘れずに覚えています。京大に行け!、京大に行け!、京大に行って学問せえ!って。まさか、お忘れじゃありませんよね。私は残念ながら医学部に進学しましたので、京大や学問と縁がなかったかもしれません。しかし、息子には先生の夢をかなえてほしいと思いました。キョウタロウのキョウは、京大のキョウにしたんです。」

(しばし呆然としながら)…口癖程度のことだったのかもしれない。けれども幼い京太郎くんの人生を決める一言だったのかもしれない。小生も「先生」のハシクレなら、1秒たりとも忘れちゃいけないことだった。忘れがちなことでもある。再認識したい。

Yさん一族と別れたあと、横で聞いていた妻に、「すばらしい生徒を持った。私は幸せ者だ」と話しかけました。

「すばらしい先生だと思ってくれる、すばらしい生徒…ですね。あなたと同じくらい、幸せな…京太郎くん」。

「ありがとう。救われたよ」。私は妻に微笑みかけました。妻も微笑んでいました。(続く)

学園前教室・杉浦

あの頃のこと(その1)

春期講習が終わり、桜吹雪が終わり、ウグイスの鳴き声練習が終わり、毎朝出会うゴールデンレトリバーが冬眠(?)から覚めたころ、ホッと一息つける刹那があります。「レトリバーって、冬眠しましたっけ?」「う~ん、冬眠するんちゃう?熊みたいやし…」と、微笑ましくもジャレあう飼い主とレトリバーの至福のひと時にも似た一瞬が終わるとき、それでも、しつこくも、小生をのどやかな春眠に誘う、忘れ得ぬ「あの頃」が思い出されます。

昭和がもうすぐ終わりを告げる(…とは、思ってもいなかった)あの頃、ちょうど30年前の春、小生は某大手塾の教壇に立ちました。「高校入試と小学校低学年、担当してね。できるでしょ!」。これが上司からいただいた初めての「業務命令」でした。「研修も無しで、ええんかいな?」と、疑問に思うゆとりもなく、修練の日々が始まりました。

小生、まさに若造でした。「授業はパフォーマンス」と断じておりました。「わかりやすいパフォーマンスが、唯一成績向上の基(もとい)」と盲信しておりました。「なんだか変?」と気づくのに、六か月もかかりました。パフォーマンスを磨けば磨くほどに、みるみる生徒の成績が落ちていったのです。若造は深く悩みました。

小生と違って、成績を上げている同僚の授業を研究しました。見学に行って驚きました。「この問題、解いてみい。いや、ちょっと待った、こっちにするわ。う~ん、よし、決めた。そっち、解いてみい」。なんと自信無げな、頼りなさそうな。「こりゃあ、失格やろう!」と思いました。

浅はかでした。なぜ、この授業が成績向上に結びつくのか、しょせん小生のレベルには、知る由もなかったのです。このことに気づいた瞬間、まるでハンマーで十往復ほど殴られたような衝撃を感じました。

小生の授業とは、生徒の「目」が違っていたのです。同僚の授業は、いつもハラハラドキドキ。いつ失敗するとも限らないスリルとサスペンスに満ちています。授業が終わるまで、それこそ「目」が離せないのです。同僚に比べたら、失礼ながら小生は立て板に水、しかしながら、正論続きの単調リズム、いつしか「目」が眠ってしまうのです。

限りなくわかり続けることの所在無さ、右の耳から左の耳、お仕着せのパフォーマンスは聴衆を無視した無益の連鎖になり果てていました。本当に浅はかでした。

昔も今も、気づいたら直します。意図的な計算ミスを織り交ぜました。誤字・脱字を敢えて板書しました。「先生!、そこ繰り下がってへんでぇ」。「先生!、漢字間違ってるわぁ」。生徒が「冬眠」から覚めました。成績も上がって行ってくれました。

集合授業をしなくなった今でも、「ペン先を、よく見てたね」とか、「十秒前に言ったこと、よく聞いてたね」と、ほめられる生徒がいます。単調な解説に陥らないために、あちこちに小さな「薬」をばら撒いて話します。用法・用量を守りませんと、「薬」も「毒」になることがあります。いや、表現が違ってますね。「毒」をうまく使ってこそ「薬」になるのですね。

今日もセッセと「薬」を仕込み、台本を練り上げ、…そうしはじめた30年前のあの頃を、懐かしく思い出します。あの頃とよく似た春だからでしょうか?(続く)

学園前教室・杉浦

大阪通信 Vol.26 配布開始しました -「土器が誘う魅惑の古代史」です

大阪通信 Vol.26 配布開始しました。「土器が誘う魅惑の古代史」について語りました。今回もちょっと覗いてみましょう。

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唐突ですが、土器に凝っております。「煮炊きや保存のための料理道具ですな」と、はい、元は…と言えばそうでした。人間が人間の食事に供するために、土器をつくり、土器を使っていただけなら、「お見事!薄くて硬いお茶碗に進化しました」、これで一件落着でしょう。私が土器に凝ることもなかったと思います。瀬戸焼や常滑焼に凝らない限りは…。

人間がカミの食事に供するために、土器をつくり、土器を供えはじめたとき、私を惹きつけてやまない土器たちが出現したのです。実物をご覧いただきましょうか。
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大阪通信 Vol.26、石川数学塾大阪・学園前教室にて好評配布中です。ご自由にお持ちください。

なお、中入倉庫に大阪通信のバックナンバーが揃っています。先週の 大阪通信 Vol.25、今週の 大阪通信 Vol.26も、春講前最終号につき倉庫に新収納しました。みなさん、ご覧になってください。

学園前教室長・杉浦

大阪通信 Vol.25 配布開始しました -「Zレポート」掲載します

大阪通信 Vol.25 配布開始しました。「Zレポート」って、いったい何なんでしょう…?

今回も立ち読みしてみましょう。

あと4ヶ月弱で50歳…の「おじさん」が乗るには、あまりにヤンチャな…、フェアレディZに乗ることにしました。国産スポーツカーの代名詞的存在ですね。私なんぞが乗ってもよろしいのでしょうか?Zの品位と品格を貶めることになるのではないか?そんな疑問が湧きおこって参ります。

車を乗り換えたんですね。何か事件でも起きたのでしょうか。

大阪通信 Vol.25、石川数学塾大阪・学園前教室にて好評配布中です。ご自由にお持ちください。

なお、中入倉庫に大阪通信のバックナンバーが揃っています。前号の大阪通信 Vol.24、倉庫に新収納しました。見逃した!というみなさん、ご覧ください。

学園前教室長・杉浦

春セット、好評配布中です!

こんにちは。石川数学塾大阪・学園前教室の杉浦です。

もうすぐ配布の学園前バージョン春チラシ+春期講習ウェルカムメッセージ(+申込書)、学園前教室にて好評先行配布中です。

ご自由にお持ちください。

※大阪通信ファンの皆様、ごめんなさい。今週は「春セット」を配布しますので、大阪通信お休みです。来週には復活します。「Zレポート」掲載予定です。何のことでしょうか?楽しみにお待ちください。

学園前教室・杉浦