謝-冬講日記(27)

今年も一年が終ろうとしております。皆様のおかげです。ありがとうございます。

あたりまえのように、目前にあるものに対して、敢えて感謝することがない私たちですが、ある日突然、目の前がまっさらになってしまったら、きっととてつもない喪失感に苛まれそうな気がします。

そんなあれこれを掘り起こして、感謝する年末にしたいです。

日々少しずつ「まっとう」であることが難しい世の中になっていきます。奇妙奇天烈(きみょうきてれつ)が、何故だか幅を利かせてきます。

奇妙に奇妙で応酬していては子供の喧嘩です。非生産性の最たるものです。

あたりまえに「まっとう」であることは、そのままズバリ、「まっとう」な人間関係に他なりません。

「まっとう」な教育は、こうして準備されるのでしょう。

もうすぐ始まる新しい年が、「まっとう」にあふれるものでありますように。

石川数学塾大阪
学園前教室・杉浦

諭-冬講日記(26)

「試験結果、あまり良くありませんでした」と、成績表を持ってくる生徒がいます。ああだ、こうだ、ああすれば良かった、こうすれば良かったと、山ほど言い訳します。

私は最後まで聞くことにしています。聞き終わったら、最後にこう言います。

「まだまだ勉強!と、分かって良かったね。さあ、直そうか。」

生徒は、ハッと我に返ったように、再び勉強し始めます。

「子供と、どう接していいのかわからない」という親御さんが増えています。そんな親御さんに、私がお話しするエピソードです。

親御さんはきっとご家庭内で、愛情あふれる叱咤激励を、不断に継続なさっているのでしょう。ありがたいことです。

しかしながら、勉強結果に対してだけガンガンおっしゃるとなると、逆効果かもしれません。

子供さんが試験結果を、オドオドと持ってくるようになってしまいます。

勉強に限らずとも、結果が出てからあれこれ言ったところで、何も始まりません。時計の針は、逆には廻らないからです。

それよりも大切なことは、「結果ではなく、意欲を誉めること」です。

結果をはじき出すものは、何よりも意欲ですし、意欲あればこその結果でありましょう。

ダメであることは、うまくいくための無限の可能性を内包していること、その可能性を意欲に転化することが、最も素晴らしい激励なのです。

そのためには、焦りは禁物です。短期決戦は、絵に描いた餅です。

持久戦を厭わず、長期決戦を覚悟したものだけが、栄光を掴み取ることができるのです。

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諭-冬講日記(26)

「試験結果、あまり良くありませんでした」と、成績表を持ってくる生徒がいます。ああだ、こうだ、ああすれば良かった、こうすれば良かったと、山ほど言い訳します。

私は最後まで聞くことにしています。聞き終わったら、最後にこう言います。

「まだまだ勉強!と、分かって良かったね。さあ、直そうか。」

生徒は、ハッと我に返ったように、再び勉強し始めます。

「子供と、どう接していいのかわからない」という親御さんが増えています。そんな親御さんに、私がお話しするエピソードです。

親御さんはきっとご家庭内で、愛情あふれる叱咤激励を、不断に継続なさっているのでしょう。ありがたいことです。

しかしながら、勉強結果に対してだけガンガンおっしゃるとなると、逆効果かもしれません。

子供さんが試験結果を、オドオドと持ってくるようになってしまいます。

勉強に限らずとも、結果が出てからあれこれ言ったところで、何も始まりません。時計の針は、逆には廻らないからです。

それよりも大切なことは、「結果ではなく、意欲を誉めること」です。

結果をはじき出すものは、何よりも意欲ですし、意欲あればこその結果でありましょう。

ダメであることは、うまくいくための無限の可能性を内包していること、その可能性を意欲に転化することが、最も素晴らしい激励なのです。

そのためには、焦りは禁物です。短期決戦は、絵に描いた餅です。

持久戦を厭わず、長期決戦を覚悟したものだけが、栄光を掴み取ることができるのです。

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信-冬講日記(25)

深く信じて、前に進む者になりたいと思います。

「この国の風土も、海も、山も、空気も、風もすべて、国家のものではありません。そこに住んでいる人たちのものです。」

かつて痛快にも、こう言い放ったのは、病身をおして沖縄知事選挙の応援演説にいらっしゃった故・菅原文太さんです。

「いのちの党」を名のり、晩年を反戦平和と農業に奉げた文太さんは、ご自身が主演された映画「仁義なき戦い」の最終シーンから、このようにも付け加えられました。

「弾はぁ、まだ一発、残っとるがよ。」

文太さんの演説に、信じることの素晴らしさ、そして揺らぎなさを感じるのは、私だけではありますまい。

しかしながら、人にものを教える人間には、良くも悪くも風見鶏が多いといいます。

そんなものにはなりたくない、文太さんのようになりたいと、私は常々思っているのです。

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信-冬講日記(25)

深く信じて、前に進む者になりたいと思います。

「この国の風土も、海も、山も、空気も、風もすべて、国家のものではありません。そこに住んでいる人たちのものです。」

かつて痛快にも、こう言い放ったのは、病身をおして沖縄知事選挙の応援演説にいらっしゃった故・菅原文太さんです。

「いのちの党」を名のり、晩年を反戦平和と農業に奉げた文太さんは、ご自身が主演された映画「仁義なき戦い」の最終シーンから、このようにも付け加えられました。

「弾はぁ、まだ一発、残っとるがよ。」

文太さんの演説に、信じることの素晴らしさ、そして揺らぎなさを感じるのは、私だけではありますまい。

しかしながら、人にものを教える人間には、良くも悪くも風見鶏が多いといいます。

そんなものにはなりたくない、文太さんのようになりたいと、私は常々思っているのです。

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決-冬講日記(24)

頭デッカチはいけません。決めるべき時に、決められなくなってしまうからです。

なんでもかんでも決めすぎてもいけませんが、昨今「決めすぎ」よりも、圧倒的に「決められな」い人々が増えてきています。

私も最近、「ちょっといいな」と思ったパソコンを購入する際、この経験をしました。

「ちょっといい」パソコンが、年末大売出しみたいになっていまして、三日おきに定価が下がっていきました。

いったん決意して発注しようとするのですが、「まてよ、もしかしてさらに値下げがあるかも?」と思うと躊躇してしまいます。

「もう、ここらあたりで」と、満を持して発注した翌朝、DMに値下げの文字が踊り、再発注となりました。

「優柔不断、いかん、いかん」と思いながら、なぜか頭と体がバラバラに動いてしまいます。典型的な頭デッカチでした。

四日ほどで到着した即納モデルでしたが、最近のパソコンは、軽くて静かで可愛らしくて…、本当に良いですね。

25年くらい前、当時IBM-PC/ATと呼ばれていたパソコンが、まるで重金属の塊だったころを知っている私は、隔世の感です。

「もっと早く手に入れるべきだった」と思う私も、終始頭デッカチに他なりません。

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決-冬講日記(24)

頭デッカチはいけません。決めるべき時に、決められなくなってしまうからです。

なんでもかんでも決めすぎてもいけませんが、昨今「決めすぎ」よりも、圧倒的に「決められな」い人々が増えてきています。

私も最近、「ちょっといいな」と思ったパソコンを購入する際、この経験をしました。

「ちょっといい」パソコンが、年末大売出しみたいになっていまして、三日おきに定価が下がっていきました。

いったん決意して発注しようとするのですが、「まてよ、もしかしてさらに値下げがあるかも?」と思うと躊躇してしまいます。

「もう、ここらあたりで」と、満を持して発注した翌朝、DMに値下げの文字が踊り、再発注となりました。

「優柔不断、いかん、いかん」と思いながら、なぜか頭と体がバラバラに動いてしまいます。典型的な頭デッカチでした。

四日ほどで到着した即納モデルでしたが、最近のパソコンは、軽くて静かで可愛らしくて…、本当に良いですね。

25年くらい前、当時IBM-PC/ATと呼ばれていたパソコンが、まるで重金属の塊だったころを知っている私は、隔世の感です。

「もっと早く手に入れるべきだった」と思う私も、終始頭デッカチに他なりません。

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祭-冬講日記(23)

クリスマスが終わって、投げ売りされているケーキが目立ちます。「祭」の終りです。

古来この国では、「祭」とはカミを「祀」ることでした。カミとは天上に住まう形而上的存在などではなく、祖先霊そのものでした。

族長はカミを「祀」ることにより、支配の正当性を主張し、「祭」を四方に及ぼすことにより、現世を支配したのです。

「祭」、「政」ともに「マツリゴト」たる所以ですね。

この「祭」り「祭」られる関係から、「学」び「学」ばれる関係も派生したのではないか、私は最近、そんなことを考えています。

「マツリゴト」の秩序無くして、「マナビゴト」も無かったのではないか。そんなことに気づき始めました。

もしもそうだとすれば、政治屋が教育屋の範ちゅうに首を突っ込んで、引っ掻き回すこと、教育予算ひとつ取っても、あたりまえの茶飯事になってしまった奇妙な蜜月、その源流が遥か古代にあったのかもしれないと思えて仕方ありません。

古くより、教育屋は政治屋を毛嫌いしてきました。今も、そうでしょう。

しかしながら、生理的嫌悪のみが事態を好転させるとは、およそ考えられない理由が、だんだん見えてきました。

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祭-冬講日記(23)

クリスマスが終わって、投げ売りされているケーキが目立ちます。「祭」の終りです。

古来この国では、「祭」とはカミを「祀」ることでした。カミとは天上に住まう形而上的存在などではなく、祖先霊そのものでした。

族長はカミを「祀」ることにより、支配の正当性を主張し、「祭」を四方に及ぼすことにより、現世を支配したのです。

「祭」、「政」ともに「マツリゴト」たる所以ですね。

この「祭」り「祭」られる関係から、「学」び「学」ばれる関係も派生したのではないか、私は最近、そんなことを考えています。

「マツリゴト」の秩序無くして、「マナビゴト」も無かったのではないか。そんなことに気づき始めました。

もしもそうだとすれば、政治屋が教育屋の範ちゅうに首を突っ込んで、引っ掻き回すこと、教育予算ひとつ取っても、あたりまえの茶飯事になってしまった奇妙な蜜月、その源流が遥か古代にあったのかもしれないと思えて仕方ありません。

古くより、教育屋は政治屋を毛嫌いしてきました。今も、そうでしょう。

しかしながら、生理的嫌悪のみが事態を好転させるとは、およそ考えられない理由が、だんだん見えてきました。

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厳-冬講日記(22)

「厳しい勉強」という論理矛盾があります。

何ゆえに論理矛盾かと申しますと…、勉強は「やりたい人」と「やらざるを得ない人」がするものですから、厳しかろうと厳しくなかろうと、どちらでも良いものなのです。厳しい、厳しくないを、「あえて言い張る必要が無い」ということです。

敢えて言うとしましたら、それは勉強を「やりたくない人」や「やる必要の無い人」が、無理やりやらされている証左に他なりません。これは「勉強」ではありません。

ゆえに「厳しい勉強」は、ありえないのです。

さてさて問題は、ありえないにもかかわらず、あたかも「ある」かのごとく人々に信じられているのは何故か?…、この点ではないでしょうか。

ズバリ言い当てますと、それは迷信だからです。

人々は「勉強」の背後に、蛍雪に耐え、克己を克ち取った物語を求めます。ドラマを求めるのです。

放っておいたら、およそ人々がやらないことを、敢えてするならば、そこには深い事情があるのであろうと。

いずれ人々の洞察は独り歩きし始め、「あるかもしれない」が「あるにちがいない」になり、「まちがいなくあったのだ」に転化します。

難しいことではありません。噂話の独り歩きと同じです。

大事なことは、こんなことです。

勉強に関わるものでなくとも、あらゆる概念は人々によって塗り替えられます。歪曲されることもあれば、誇張されることもあります。

これらと対峙しようとするならば、「現に目の前にあるものだけを信じる」ことを、肝に銘じるべきです。

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