民-冬講日記(20)

「学校教育完全民営化」が、悲願であります。

公教育を、なし崩し的に「実質民営化」するに、何ら難しいことは無く、むしろ今日に至るまで、さまざまに実現されてきたと思います。

今日において、私立学校がその存在感を益々大きくしつつあることに、何人たりとも異存はないでしょう。

小生の理想は、この傾向を究極まで推し進め、国鉄→郵政→公教育と、競争原理から隔絶された最後の聖域に挑むことです。

およそ資本主義経済体制下において、競争無きところに進歩なし。無制限に膨れ続ける教育行政を、大風呂敷行政から最小限の許認可行政に縮小し、教育者も含めた教育官僚を、大胆に削減します。大黒様のエンギモン袋みたいに膨張した教育財政を、スパッとスモールパッケージに収めます。

そして何よりも、学校設置主体の制約をほとんど撤廃し、およそまともな組織体であるなら、すべからく誰でも学校を設立し運営できるようにします。

被教育者には、受益者負担を徹底します。ふところの痛むことですから、学校を十分に吟味し、適切に選択することが当たり前になります。

当然のことですが、経営不振から倒産する学校も出てくるわけです。

こうなったら、小生も「石川数学塾大阪小・中・高等学校」を設立し、僭越ながら理事長として辣腕を振るう予定です。

小生の学校では受験勉強を、人格形成や基礎陶冶の根本に据え、これと対峙したり、観念的に否定したりするのではなく、これと積極的に闘うことから、実践的教育を構築します。

いずれも政治が決断すれば、できることです。

小生は「学校教育完全民営化を目指す全国期成同盟」を結成し、衆参両院の現役議員および将来の議員に踏み絵を踏ませます。

賛同者には党派を問わず、熱烈支援を与えます。

…何のこっちゃ?と思われた方、そのまま次回のブログもお読みください。

「今日から教育民営化」、数年前、季節講習会のスタートイベントとして物議をかもした「講演会」がよみがえります。

お楽しみになさってください。

石川数学塾大阪
学園前教室・杉浦

邪-冬講日記(19)

「じゃ」と読みます。「よこしまなこと」です。

古来人々は、「邪」を避けてきました。「僻邪」と申します。

吉備の墳丘墓に起源する直弧文は、僻邪するためにあったそうです。なにか「よこしま」なモノがやってきても、直弧文を見ると退散する…と。

土器や埴輪に刻まれた幾何学模様にも、ちゃんと意味があったのですね。

古墳の埋葬施設の一部が、真っ赤っ赤に塗られているのも、同じなんだとか。僻邪の朱といって、水銀朱なんだそうです。

外から「よこしま」なモノが入ってこないように、さらには、埋葬されたモノが「よこしま」化して迷い出ないように、そういった意味があったそうです。

『魏志倭人伝』に曰く、玄界灘を往来する倭船には「持衰」(「じさい」と読むそうです)が乗り、航海の「邪」を一身に背負い、食べず、飲まず、沐浴せず、航海が無事に終われば金銀財宝を与えられ、逆に失敗すれば、殺されたと言います。

何を考えているかと言いますと、憎しみとテロルが連鎖する現代において、古代人が「邪を避ける」と考えた知恵は、ずいぶん役に立つのではないかと思うのです。

やられたらやり返す前に、ほんのちょっと立ち止まり、我々当事者は「よこしま」に魂を奪われていないか。もしも奪われているのなら、少しだけ冷静になって、「邪」を払ってから喧嘩しても遅くないのじゃないか。そう考えるところにこそ、「僻邪」が成立して、無駄な血が流されることもなくなろうと、最近その思いを強くしています。

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爽-冬講日記(18)

あまり何事にも、こだわらなくなりました。明鏡止水の境地と言ったら、格好良すぎますでしょうか。

若い皆さんの方が、あれこれ悩み尽きないようです。特に「将来の不安」を聞くにつけ、胸中お察し申すことが多いです。

とは言うものの、所詮ほんの少し早めに人生を終える小生として、見果てぬ未来のことなど、語るべくもありません。

それにも拘らず、人生相談、しばしばであります。

小生、いつも申しております。至極まじめで、本気であります。

勉強?せんでええよ。

この豊かな国ニッポンに生まれたんやろ?なんなりと、食っていけるで。

多少不自由かもしれんけど、餓死すること、まあ、あれへん。

先生といっしょに、畑、やろやん。大根つくるんに、方程式、いらへん。

え?なんや、ええ生活したいって?

じゃあ、我慢して勉強しぃ。

勉強嫌いが我慢したぶん、世間様が評価してくれんねん。

先生は、好きなことしかしてこんかったから、我慢できるん、ホンマに偉いと思うわ。

志や、良し。言うたからには、実行せんかい!

一生懸命生きてんの、先生、応援したるからな。

なになに、わしのことか?何を一生懸命…やて?

はるか三、四世紀、この国にあったパラダイスを、先生は描きたい。

女王や大王が、人々のために祈り、人々は、女王や大王を尊び…。

君民、神となって共治し、平和と繁栄を享受したんじゃ。

老いたオッサンが、果てしない夢を見とる。

若いもんが、できんこと、あるかいな。

……。

(後略)

何度でも、くりかえし、語り続けたいと思っています。

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逢-冬講日記(17)

ほとんど誰にも会わないスポットで、バッタリと出くわしました。

一昨日の日曜日、山辺道をてくてくと。三輪から天理の逆コース、萱生に入りかけたところで、衾田陵に裏から登ります。

拝所を左手の尻目に、後円部周遊コース(勝手に名づけました)を選びます。湿地の谷を隔てて、右手に東殿塚古墳の後円部あたり、初老の男性に出会いました。

数年に一度しか人に会わない地点ですから、もしかして狐狸かな…?とか、モノノ怪…など、失礼千万な偏見タップリにあいさつをかましましたところ、男性は来訪目的を告げられました。

西殿塚古墳(衾田陵)には、邪馬台国の女王様が…、イヨでしたっけ、トヨでしたっけ、眠っていらっしゃると…。いやはや、ロマンですねぇ。懐かしさ倍増しまして、また来てしまいました…と。

はい、そうでうね。継体妃・手白香皇女(宮内庁治定)は、論外ですね。採りたてホヤホヤの壷片と埴輪片をお見せして、「4世紀前半でしょうね」と、ご説明申し上げました。

男性は、大きな大きな西殿塚を、もう一周して帰りますと、歩き出されました。

ポカポカ陽気の師走に、なかなか巡りあえない方に出会えた気分です。

ちなみに壷片や土器片ですが、雨が降った翌日など、墳丘から破片が流れ出してきています。宮内庁の「keep out」に入り込まなくても、けっこう拾えます。

と言いましても、あまりに地味すぎて、皆さん無関心なご様子。

小生佐紀路で拾った奈良時代のカワラケを、ある畝に、これ見よがしに飾ってあるのですが、誰も取って行かれません(笑)。

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時-冬講日記(16)

時計の針を逆回りさせることができたら…と、思うことがあります。

老人が尚古趣味に浸ると、どうにもジメジメしていけません。

「ああしたら良かった、こうしたら良かった」と、宿命を呪うことに没入してしまいます。

しかしながら、第二第三の道行きなるものが、仮にあったとしても、晩年にその道行を悔やまない保証もありません。

むしろ、「文句言い」は何度でも、ウジウジ言っていそうな気がします。

さて、そんな老境とは対照的に、スパッと唐竹割り…な野郎もいます。ロシア赤軍を組織し、ヴェイ・レーニンと共にロシア革命を成し遂げた、レオン・トロツキーであります。

「私は、自分の意識的生涯の43年間というもの革命家でありつづけたし、そのうちの42年間はマルクス主義の旗のもとで闘った。たとえはじめからやり直すことになったとしても、もちろん、私はあれこれの過ちを避けるように努めるだろうが、私の生涯の全般的な方向性は変わらないだろう。私は、プロレタリア革命家、マルクス主義者、弁証法論的唯物論者、したがってまた非和解的な無神論者として死ぬだろう。人類の共産主義的未来に対する私の信念は現在、青年のころに劣らず熱烈であり、その時よりも強固でさえある。」(『遺書』西島栄訳)

トロツキーは、亡命先で政敵・スターリンの刺客に襲撃され、瀕死の重傷を負い、それが原因になって死亡します。

上記『遺書』は、その人生を予見するかの如くに書かれたものです。

さりながら、トロツキー、全く曇りがないですね。こんなふうに割り切れたら、人はきっと幸せなのかもしれません。

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忘-冬講日記(15)

なんぼなんぼ楽しかった思い出でも、人は忘れていきます。

忘れないようにするには、どうしたら良いのですか?と、しばしば聞かれます。先生、記憶力、良さそうですし…などと。

およそ人間であれば、忘却曲線というグラフの奴隷でありまして、時が経てば記憶が失われてゆくものです。個人差は、ほとんどありません。小生も例外ではありません。

しかしながら、一見「記憶力が良さそうな」人が、いつの時代にも一定程度存在しておりまして、この存在が謎を深め、問題を複雑にしているのも、また偽らざる事実でありましょう。

このような奇特な人々は、実はほんの少しのコツを身につけています。

「あかん、もうそろそろ忘却の彼方」といった刹那、人の記憶は一時的に、大量に鮮明に思い出されています。多くの人々は「奇妙なフラッシュバック」としか思っていませんが、まるでろうそくが消える直前の最後の炎…みたいな瞬間があるのです。

ここを見過ごさずに、この前後に合わせるかのように、もう一度覚える努力をかましますと、ほとんど覚えた直後のような新鮮な記憶が、リフレッシュされると知られているのです。

小生、忘却は日常生活を、つつがなく送るための知恵だと思うところが多く、なんでもかんでも何一つ忘れられない人は、過去にのみ拘泥された後ろ向き野郎に堕すると、そう思っている輩でもあります。

それにも拘らず、どうしても片隅に留めたい記憶を、意図的に取捨選択して、整理整頓できること、これを「忘れない」方法と評していただけるなら、それもまた役に立つことであろうと思えます。

大事なことは、忘却の宿命を呪ったり、嘆いたりすることではなく、それに抗う技を身につけ、利用することではないでしょうか。

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智-冬講日記(14)

はい、そろそろ、これで終了にします。講演会「国家誕生の地、桜井を語る~マキムクからイワレへ、大王の歩んだ道~」、最後の記事です。

講演&シンポジウムされた先生方に負けず劣らず、聴衆も名だたる猛者であったようです。

誰しも然るものですが、歳を取るとちょっとした人名や地名が浮かびづらくなります。

「え~と、塚口義信先生がおっしゃったように、桜井茶臼山古墳がオオビコ、メスリ山古墳が…、誰でしたっけ…、四道将軍の…」なんて、壇上でしどろもどろになられましても、客席そこら中から大きな声で、「タケヌナカワ!」「タケヌナカワ!」「ワケまで付けよか、タケヌナカワワケ!」と、何とも心強い聴衆であります。

とある考古学者先生にお話をお伺いいたしました際、こんなことをお聞きしました。

「ぼくたちの仕事は、在野に監視されていましてね、はい、常にですね」。

「掘るまでは良しとしても、エエカゲンな考察かましますと、松本清張さんなんて、ボロカスいわはって、そりゃ怖かったです」。

朝野、良き緊張関係とでも申しましょうか。熱心な関心層が広く拡がっていること、学問にとって大事なことでしょう。

小生も在野の末席にお加えいただきたいものです。

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隔-冬講日記(13)

申し訳ありません。講演会「国家誕生の地、桜井を語る~マキムクからイワレへ、大王の歩んだ道~」、引きずっております。

「よほど、おもしろかったんですね。良かったですね」と、喜んでもらえます。はい、そのとおり、強烈におもしろかったです。

どんな学問にも師弟関係はあろうかと思いますが、考古学の世界を見渡しますと、笑ってしまうくらいに深くて強いきずなを感じてしまいます。

畝傍山のふもとの考古学研究所が、関西大学考古学研究室系で、名伯楽でもいらっしゃったS先生流であり、平城宮跡内の文化財研究所が、京都大学考古学研究室系で、三角縁神獣鏡と王権の考察をはじめられたK先生とか、堅調な学問業績とは裏腹に、何かと人間関係に波風を立てられたU先生流であると、小生のような浅学非才の輩もなんとなく心得ているわけです。

今回の講演でも「S先生の子分」を自称される老師が、「S先生の授業をさぼって、U先生の現場を見に行ったら、ムチャクチャ叱られた」などとボヤかれるにつけ、会場に失笑が漏れていましたのも、なんともアジのある瞬間でした。

ただし、そうは言うものの、古い世代の遺恨とか怨念とか、そういうオドロオドロしいものは、できるだけ見て見ぬふりをして、学問の本分に立ち返ろうとする若い世代の本音も見え隠れします。

「ヤマト国は近畿にあって、国王は帥升だったのか。帥升は近畿にいたのか?」などと、ネチネチと攻撃をかます老師を尻目に、「歴博の炭素14年代法は、全然ダメ。庄内式開始時期を上げ過ぎ、弥生Ⅴ式はこんなに狭くない。聖俗二元論は焼き直し、執政王が将軍であってはならない理由がない」と、ザクザク切り刻まれた寺澤薫先生の言説が、「では、ここからは和気あいあいと…(笑)」を本音とするものであると読み解けば、これまたアジのある一言と存じました。

小生、個人的には、学問の背後にドロドロした人間関係があっても、悪くないどころか、かえって面白いと達観しているほうですが、時代を世代が変えていく、そんなものも強く感じざるをえません。

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巡-冬講日記(12)

講演会を、もう一席。「国家誕生の地、桜井を語る~マキムクからイワレへ、大王の歩んだ道~」です。

考古学を勉強する時に、おそらく一番慎重にならざるを得ないことがあります。それは「編年」の問題です。

遺跡・遺物はあっても、文献史料がほとんどない、あってもあてにならない時代を扱いますから、要するに実年代いつごろの話なんですか?と問われることが、始まりであり終わりであるのです。

いきなりさっさとわかることでもありませんので、典型的な遺物であるところの土器を歴順に並べ、共伴遺物なども参考にして実年代を推定していく、これを「土器編年」と言います。

研究成果が長年蓄積され、たとえば箸墓古墳といったら、庄内Ⅲ式土器から布留0式土器に、劇的に変わる時代の遺跡だとわかってきました。

ところがこの劇的変化が、実際にいつ起きたのか?となると、ほぼ3世紀の真ん中あたり、西暦250年から260年、ここらあたりに落ち着きつつありますが、280年に下るとか、三世紀前半にさかのぼるとか、諸説入り乱れるわけです。

こうなると、ほぼ三世紀の真ん中くらいにお亡くなりになった邪馬台国の女王・卑弥呼の墓と考えて妥当だろうという説から、いや次の女王・台与の墓かな…とか、間を挟んで「男弟」はないのか…など、これまた紛々とします。

小生が勉強させていただいて、おもしろいな…と思いましたのは、偉い先生方、お若い頃はずいぶん過激な言説に傾かれ、編年を上げ気味に考えられることが多いですが、歳を取られると落ち着かれ、下げ下げに語られることが多いということです。

「古墳の発生は1世紀まで上がって良い」と、通説を200年近く遡らせておられた先生が、箸墓の編年が上がりすぎた、卑弥呼では無理だ、台与に治定すべきだと、ずいぶんおとなしくなられるを聞くにつけ、老境に至った慎重さを感じざるをえません。

また若い先生が、庄内式は2世紀がメインと、上げ上げに編年されるとき、若いエネルギーのすばらしさを感じざるをえませんし、老先生もかつて若かりし頃は…とやられて、若気の至りとも言い逃れできずに困っている老先生にも、同情致します。

歴史は繰り返す、きっとそうなのだろうとも思いました。

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聴-冬講日記(11)

講演会&シンポジウムに行って、勉強してきました。去る11日、桜井市民会館にて、「国家誕生の地、桜井を語る~マキムクからイワレへ、大王の歩んだ道~」です。

毎年、奈良マラソンの応援に行く日ですが、この日は失敬して勉強してきました。

各先生方60分ほど、ご講演をなされまして、最後にシンポジウムでした。先生方が書かれました著書・論文の類と、おそらく講演時間の数十倍つき合って参りましたので、おおよそ既にご教示賜ったことがらが多かったですが、「桜井市制六十周年記念」の講演会にお呼びいただける幸せ…を満喫されていらっしゃる先生方、心なしか嬉しそうで、小生も嬉しくなってしまった次第です。

文字面だけからはわからないことも、聞いてみると感じ取れることもあります。

およそ作文にあらざる「論文」なるもの、断定調(~である)の連続でありますが、同じく断定調であっても「~である、まちがいない、命を賭けてもよい」というものから、「~である…と信じたい、俺様、がんばったし…」、「~である…と言えたら、どんなに幸せだろう、論証はいつかするからね」と怪しげなものまで、「誤魔化しきってやろう」という確信犯から、「指摘されちゃいましたね、はい、ごめんなさい」まで、さまざまに変移することを感じ取れます。

書物とばかり仲良くならずに、人が語る瞬間を堪能することも、また宜しかろう、そんな思いを懐いて帰ってきました。

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