寿-夏講日記(その11)

毘沙門天の手前、向かって右にいらっしゃいますのは、長い頭に薄い髪、濃い髭と深い笑み、寿老人と申します。

長寿の神として民間信仰を集められる方だそうです。

なるほど、毎日これほど喜色満面に暮らしておられましたら、永遠の生命も手に入れられようではありませんか。

「正直こそ至高!ウソは不要! わからないことがわかり できないことができるようになる それこそが勉強じゃ!」

これまた直截ながらマトを射抜いたお言葉。さすが、寿老人。単なる癒し系ではございません。

小生もこれほどサックリと真理を言い当てられましたら、きっと幸せになるであろうと思います。

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毘-夏講日記(その10)

七福神の中で、唯一の軍人スタイルが毘沙門天です。厚い鎧を身にまとい、仏敵を殲滅することが、本来の使命でございました。

同じように仏敵と闘う輩が、他にも三者おりまして、持国天、増長天、広目天と、そうそう、この並びで言いますと、毘沙門天は「多聞天」と称されるのだそうです。

戦国の梟雄・松永弾正が、東大寺を望む丘の上に造りましたのが多聞城、信長に何度も反旗を翻した弾正が、信貴山城に追い詰められて爆死したのち、破却されたといいます。天守閣が史上初めてそびえた城としても有名でしたが、その跡地には若草中学校があります。

ほとんど地続きの向かい側に、聖武陵と光明子陵、奈良時代の造作でありましたが、いつのまにか眉間にビームを発する怪しい僧が、その名も「眉間寺」を開いたといいます。「大和名所図会」にも、聖武陵というより、立派に眉間寺でありまして、堂宇朽ち果て、単なる古墳に戻った現今、世の無常を感じざるをえません。

そういえば信長が、正倉院御物であった名香・蘭奢待(らんじゃたい)を要求した際、多聞城にありったけの兵を詰めさせ、東大寺に向かって気勢をあげさせ続けたといいます。

東大寺の僧たちは、日夜限りなく続く叫び声にノイローゼとなって、ついに正倉院を開け、蘭奢待を差し出したとか。

ちなみに「蘭奢待」のカマエや、カンムリや、ヘンを取り去ると、「東大寺」が登場すると…、有名な戯言でした。

さて、毘沙門天のお言葉です。

「できるまでやれ! 為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり やればできる!きっとできる!」

さすがバトルモードの毘沙門天!元気をいただきました!

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恵-夏講日記(その9)

七福神です。大黒様の手前、恵比寿様でございます。

ふくよかな顔と腹ばかりで、どれがどれやら区別がつかん!というかた、恵比寿様は右手に釣竿、左手に大きな鯛を持っていらっしゃいます。これで区別できますね。

どうやら海男でいらっしゃるようですが、実は海に生きざるをえなかった悲しい半生が語られること、めったにありません。

『古事記』に曰く、イザナギ・イザナミから生を受けるも、葦の小舟に乗せられて捨てられたのだそうです。

一説にドザエモンとなり、ブクブクに膨れあがってしまったのだとか。

しかしながら不屈の生命力で逆境を生き抜き、あやかってみたいものだと思う恵比寿ファンを増やしていったそうです。

まさに災い転じて福となす、恵比寿様の一言は、まっしぐらにがんばろうとするものでした。

「人生=勉強! 片手間な勉強は、後悔を生むだけ! 勝利以外に目標なし!」

恵比寿様がおっしゃればこそ、心に響きわたる言葉ではありませんか。

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黒-夏講日記(その8)

七福神です。

弁財天の向かって左上、打出の小槌と大きな袋が大黒様です。小槌を振って福を呼び、袋に詰めてデリバリーしてくれるんですね。

もともと記紀神話や出雲国風土記に出てくるオオクニヌシだったそうで。親指くらいの大きさで、海の彼方からやってきたスクナビコナといっしょに、この世を造作なさいました。

天孫がやってきまして「この世を寄こしなさい」と要求されましたが、息子・事代主に相談し、事代主が全国の神様に諮って献上することにしたと…、はい、丸く収めました。

争いを避け、幸せを希求し、これらを人々にもたらすもの、それが大黒様なのです。

「こら!逃げるな! 言い訳するな! まっしぐらに、やりきってみろ! いっしょにやってあげるから!」

お優しい神様ですね。ひとつ、すがってみようではありませんか。

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弁-夏講日記(その7)

夏期講習のスケジュール&お申込みシート、学園前教室の杉浦担当分、裏面の説明書きが今夏から変わりました。ご存知でしたか?

小さな文字でゴチャゴチャ書くのをやめまして、イラストも大胆な七福神の七鉄則。なんだかとても、おめでたモード全開です。

はるか倭国の昔から、わが国には八百万の神々がウジャウジャおられました。先人たちは、ぎょうさん転がっていらっしゃる神々から、都合の良いとこ取りしてきた挙句、最強おめでた軍団を作り上げてしまったのです。

今回七福神の皆さんに、ひとことずつ勉強アドバイスを頂きました。なかにはあまりに端的におっしゃていただきましたゆえに、なんのこっちゃ意味不明なものもありますので、今週は解説してみたいと思います。

本日初回であります。ド真ん中の紅一点は、弁財天様と申します。

左手に携えた琵琶の音色も麗しく、巧妙な節回し、とどろく美声、こんな風におっしゃいます。

「失敗は成功の母! 勉強とは バツがついて悔しくて そこから始まるものだ!」

そうですね。できないからするのが勉強、生まれたての赤ん坊は、勉強できませんからね。その意味では、できない経験を、誰もがしますよね。できるようになろうとする経験は、決意し実践したものにしかできません。

「できないから嫌だ」なんて、珍妙極まる理屈ですよね。勉強じゃないどころか、論外です。

さすが弁財天様、優しいお顔つきながら厳しいですね。奥が深いですね。小生も肝に銘じたいと思います。

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悩-夏講日記(その6)

飛鳥といえば大和の飛鳥…だけであるわけではなく、大和から見て葛城・金剛の向こう側、すなわち大阪の河内にも飛鳥があります。河内の飛鳥は、古代難波の都から近かったので「近つ飛鳥」と呼ばれました。大和の飛鳥は、「遠つ飛鳥」ですね。

近つ飛鳥の博物館と、その裏山の風土記の丘へ、しばしば出向くものですから、だんだん慣れて参りましたが、初めのうちは、グァ~ンとフェアレディZで穴虫峠を越えても、歩いてテクテク竹内街道を進んでも、近鉄南大阪線で一気に上ノ太子駅に降り立っても、バス停から住所表示から、何から何まで「飛鳥」なもので、「ここはいったいどこだろう?葛城・金剛を東に拝むのだから、まちがいなく大阪府のはずなんだが…」と、大いに途方に暮れていました。

ついでに二上山が葛城・金剛の向かって左手というのも、大和の真逆ですし、雄山と雌山の並び順も逆です。こればかりは未だに慣れませんで、風土記の丘の展望台にて、古墳好きの同志を探しては、「逆だ!逆だ!」と迷惑な主張を繰り返します。同志曰く「順逆いかにあろうとも、一須賀古墳群も古市古墳群も、はるか遠く百舌鳥古墳群も、何も変わろうことなし。」、要するに大したことではない!と一蹴されます。

前振りはここらあたりで。

河内に飛鳥にも流れる「飛鳥川」。「あすか川 もみじ葉ながる 葛城の 山の秋風 吹きぞしぬらし」と、新古今に詠まれているといいます。葛城山から紅葉した紅葉葉が流れてくる「飛鳥川」となると、まさに河内の飛鳥川でしょう。明日香村を貫流して、大和川に合流したあと、葛城山に流れゆく大和の明日香川では、ちと具合が悪かろうと思います。

ところが、ところが…。この歌はどうやら柿本人麻呂の作と言われているらしく、本歌は万葉集、巻10-2210ではなかろうかとも言われるのです。

明日香川 黄葉(もみちば)流る 葛城の 山の木(こ)の葉は 今し散るらし

こちらはどうやら、明日香川を流れる紅葉の葉が、紅葉の名所・葛城山中の落葉を想起させるだけですから、大和の明日香川でよろしいでしょう。

はてさて、どうしたものか?景観に悩み、歌に悩み、悩み尽きせぬ中年となってしまいました(笑)。

では種明かしをば、進ぜましょう。

「アスカ」なる地名は古代朝鮮語に始源し、「アンスク」=安宿=渡来人にとって憩いの故郷と名づけられたものだそうです。

「安宿」あふれる倭国の、なんと素晴らしかったことか!。飛鳥の悩みも氷解しました。

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理-夏講日記(その5)

「利が為に死ぬるは易く、理が為に死ぬるは難し。」

人はゼニのために死ぬことを厭わないが、主義・主張のためには、容易に死ねるものではない…と、まあ、なんということもなく、至極あたりまえのことなのですが、わざわざ書き連ねるということは、少しばかり斜めに視ているというわけであります。

「理」から視ますと、「利」は単なる守銭奴、俗物の最たるものです。逆に「利」から視ますと、「理」は極楽とんぼ、仙人の典型といえましょう。

両者交わることのない平行線と思われます。本来でしたら、甲乙つけがたいはずですが…。

「易」しと除かれる「利」、「難」と持ち上げられる「理」、除かれるものはおよそ糾弾され、持ち上げられるものは賞賛され、ここに正しく前述発言者の立ち位置が透けて見えるのです。

実を申しますと、前述小生の作文です。生来文才がありませんので、甚だミョウチクリンでありましょうが、小生不遜にも論語を語ってみたいなどと思い始め、漢文、古文、現代文、英語、ドイツ語で併行筆記しております。

前記は第一章第一節、漢文で書き殴ったものを、古文に書き下したものです。

ひととおり章・節立てを終えています。あとは書くだけ。もとい、あとは自身の移り気と闘うだけ(笑)。

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去-夏講日記(その4)

真木和泉のように爆死を選ばずとも、おそらくもう少しばかりは大人しく、いずれ何人たりとも現世に別れを告げるものであります。

まさにその時にあたって、悔いなく辞去できるものであろうかと、心配性な小生などは、あれこれ考えてしまいます。

多少逆説的ではありますが、考えることなど何もないとばかり、きれいさっぱり潔く去ることが、なかなかできないがゆえに、貴重なのだと思います。

思いのままに生きてきたからといっても、あるいは権力の絶頂にあったからといっても、必ずしもこの世の全てを捨てきれず、後ろ髪、何千回と引かれまくっている諸兄あり、とりあえず苦笑しながらも、果たして己の身に無関係であろうか…、やはり心配の種は尽きません。

たとえ肉体が滅びようとも、魂魄と成り果てようとも、見果てぬ夢が、崇高な理想があると。

この精神レベルたるや、おそらく潔・不潔を軽く置き去った高みにあるといえましょう。この意味で、実に潔いではありませんか。

潔く生きる者は、潔く去る者でもありたいと、そう思う小生であります。

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力-夏講日記(その3)

「連帯を求めて 孤立を恐れず 力及ばずして 倒れることを辞さないが 力尽くさずして 挫けることを拒否する」。

小生、もうかれこれ一年ほど、この言葉をメールのフッタに利用しております。

「安田講堂ですよね。懐かしいな。真っ赤に書き殴ってあった(笑)。」

いちばんたくさんいただくコメントです。

「へえ~?ご存知ってことは、どこぞのセクトの決死隊?」

二番目にたくさんいただくコメントです。もちろん、そんな恐ろしげな部隊に所属したことはありません(笑)。

「そんな時代があったんですか?今からじゃ、想像もつきません!」

最近激増しているコメントです。世代間ギャップを感じますね。

「なにはともあれ、良い言葉ですよね。忘れたくない言葉です。」

どんなコメントを付けられた方も、必ず最後におっしゃいます。

小生は最後のこの一言を、常々たいへん心強く思っているのです。

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義-夏講日記(その2)

すべからく今世に生きる者、義あらずして立たず。真木和泉の所論です。

「士の重んずることは節義なり。節義はたとへていはば人の体に骨ある如し。骨なければ首も正しく上に在ること得ず。手も物を取ることを得ず。足も立つことを得ず。されば人は才能ありても学問ありても、節義なければ世に立つことを得ず。節義あれば不骨不調法にても士たるだけのことには事かかぬなり。」

どれほど才能があろうとも、学問を究めようとも、節義なくして意味をなさずと。真木にとって節義とは、まさしく尊皇攘夷の大義でありました。

かつて血気にはやる若者たちは、既成学問の枠組みに対し公然と異を唱え、「ブルジョワジーのために学ぶのか、プロレタリアートのための学問か」と、しつこく食い下がったものでした。

真木和泉という男は、青年の志を忘れなかった革命家だったといえましょう。

老境一歩手前の小生など、まぶしくて仕方ありません。

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