作者別: 石川数学塾大阪
働-冬講日記(35)
しばしばいただく質問があります。
「本当に国防を任せられる政治家は、誰なのでしょうか。」
私はこんなふうに答えています。
「軍事活動は、軍人がするべきことです。政治家の仕事は、戦争をせずに済むようにすることです。」
故・菅原文太さんもおっしゃいました。
「政治の役割は二つある。まず、うまくて安全なメシを、国民に食わせること。そして、戦争をしないことだ。」
では、教育の仕事って何なのでしょうか。
「わからせること。できるようにさせること。そして夢を拓くこと。」
官営・民間を問わず、およそ教育たるもの普遍の真理と、私は理解してきました。
入試では、そのすべての成果が問われます。今年もいよいよ明日から本番です。
一年で一番楽しみな日が、今年も明日に迫って参りました。
願-冬講日記(34)
ネットの動画ニュースで、久しぶりに元総理大臣お二人のご尊顔を拝しました。
脱原発を加速させるために、ご出馬であらせられるとか。
たしかに、ご隠居でいらっしゃたり、陶芸家でいらっしゃったりと、残りの人生満喫モードが見え隠れです。
政界では、こんなお二人を「生臭い」などと揶揄するのだそうです。「今度は何を仕掛ける気じゃ?」と。
言われてみればなるほど、昨年の総選挙で、野党第一党を引っ掻き回して分裂に追い込んだ闇の紳士に…、はい、これ以上は「言わぬが華」でしょうか。
私は少し違った見方をしております。
年老いて次の世代に残してあげられるものを見渡すと、家屋敷や現金など、浮世のあれこれをはるかに凌いで気になるものがある、それはまさにこの国の「風土、海、山、空気、風」、すなわち森羅万象なのではありますまいか。
いつかこの日記にも引かせていただいた菅原文太さんの言によれば、およそ「国家のものではない」もろもろということになります。
のちの世代に、このような森羅万象を譲り渡すとき、ひとたび暴走したら誰もコントロールできなくなるようなものを受け継がせたくない、お二人の振る舞いに、そんな思いを読み取ったとしたら買いかぶり過ぎでしょうか。
教育も同じです。
受け継がなければならないことを次の世代に教え、受け継がせたくないものを葬る、いつの時代にもまっとうな教育とは、そういうものでありました。
今日もモノを教える者として、肝に銘じたいと思います。
幸-冬講日記(33)
哲学談義です。「幸せとは何ぞや?」と。
答えます。「人は、これぞまさに幸せと思えるものを、幸せと呼びます」と。
一見して、たいしたことはない形而上学ですが、入試直前のこの時期になると、心に染みます。
「○○大学しか考えていません。妥協しません!」とか、「××中学校しか受験しません。他を受けて通っても、行きません!」など、固い決意の旗を高らかに掲げていらっしゃった皆さんが、「無事、健康に受験を終えられますように」とか、「どこでもいいです。ご縁がありますように」などと、小声でのたまい始めます。
風見鶏、日和見主義などと、非難するつもりは毛頭ありません。皆さんが見定めるところの「幸せのカタチ」が、変わっただけなのだろうと思います。
人は幸せになるために生きています。生きることは日々の営みであり、哲学でも形而上学でもありません。
あれこれさまざまな幸せのカタチと、うまくつき合って生きていきたいものです。
寒-冬講日記(32)
寒くなってくると、あの頃の生活を思い出します。京都大学の横に住んでいた頃です。
寒中勉強していますと、体は元気なのですが、脳が眠りはじめます。脳にもエネルギーが必要です。
そこで…、元田中の駅から、叡電に乗ります。一乗寺で降ります。
いつもの店でビールを飲み始めます。アテはキムチです。
日本酒を飲み始めます。やはり、アテはキムチです。
焼酎を飲み始めます。しつこく、アテはキムチです。
水割りを飲み始めるころには、アテが何だか分からなくなっています。
走れば終電に間に合うのですが、何故か「始発でいいや」と思ってしまいます。
いつもの店にいつもいた輩どもは、いったいどこに行ってしまったのだろうかとか、そもそも何故いつもいたのだろうかとか、疑問が解けないまま、いつのまにかおじさんになってしまいました。
勉強と長くつき合うことも、本当によく似た趣でして、纒向や佐紀から引っ越して来た土器に囲まれ、『邪馬台国と初期ヤマト王権』など綴っておりますと、時代や興味関心は違えど、何故か変わらないものに感じ入ってしまいます。
ちなみに『邪馬台国と初期ヤマト王権』は…、チョコマカ書き留めているだけでして、モノになる保証はございません。
急がず焦らず、見守ってください。
寒-冬講日記(32)
寒くなってくると、あの頃の生活を思い出します。京都大学の横に住んでいた頃です。
寒中勉強していますと、体は元気なのですが、脳が眠りはじめます。脳にもエネルギーが必要です。
そこで…、元田中の駅から、叡電に乗ります。一乗寺で降ります。
いつもの店でビールを飲み始めます。アテはキムチです。
日本酒を飲み始めます。やはり、アテはキムチです。
焼酎を飲み始めます。しつこく、アテはキムチです。
水割りを飲み始めるころには、アテが何だか分からなくなっています。
走れば終電に間に合うのですが、何故か「始発でいいや」と思ってしまいます。
いつもの店にいつもいた輩どもは、いったいどこに行ってしまったのだろうかとか、そもそも何故いつもいたのだろうかとか、疑問が解けないまま、いつのまにかおじさんになってしまいました。
勉強と長くつき合うことも、本当によく似た趣でして、纒向や佐紀から引っ越して来た土器に囲まれ、『邪馬台国と初期ヤマト王権』など綴っておりますと、時代や興味関心は違えど、何故か変わらないものに感じ入ってしまいます。
ちなみに『邪馬台国と初期ヤマト王権』は…、チョコマカ書き留めているだけでして、モノになる保証はございません。
急がず焦らず、見守ってください。
脱-冬講日記(31)
勉強する人生を選んだ人にとって、勉強は日常そのものです。あたりまえの毎日そのものです。何の不思議もありません。
人生は勉強だけに依るわけではありません。むしろ勉強し続ける人たちのほうが、少数派でしょうね。勉強することがお仕事でない限り、多くの人々がいつか学ぶことをやめてしまいます。
このあまりにまっとうな構図から考えますと、「勉強せえ!」とドヤされながらも、隠れてコソコソと勉強をサボる子供たち…そんな茶飯事も、理論上全くなくなるはずです。
将来ある子供たちにとっては、およそモノにならない勉強にしがみつく必要もないですし、親御さんにとっては、しがみつかせる必要もないからです。
ではなぜ、いつの時代にも茶飯事が起きてしまうのか?
答えは至極単純でして、「勉強ができるようになったらいいな」程度のことは、子供たちも親御さんんも想っているからです。
茶飯事の原因は、この想いの中途半端なることにあります。「できたらいいな」程度の夢想は、艱難辛苦を乗り越えられません。
苦しくなったら子供は逃げる、親は叱る、この救い難い連鎖が、いつの時代にもあるのですね。生老病死の輪廻にも似ているでしょう。
解脱(げだつ)に必要なものはただ一つ。「勉強ができねばならぬ!」と、確信することです。それだけです。
解脱したものが、覚醒したる勉強人になること、これまた皆さん広く諒解されますでしょう。覚醒したものはサボりませんし、非難されることもありません。
中途半端なまま居続けることは、人生の無駄遣いです。悟りましょう!
脱-冬講日記(31)
勉強する人生を選んだ人にとって、勉強は日常そのものです。あたりまえの毎日そのものです。何の不思議もありません。
人生は勉強だけに依るわけではありません。むしろ勉強し続ける人たちのほうが、少数派でしょうね。勉強することがお仕事でない限り、多くの人々がいつか学ぶことをやめてしまいます。
このあまりにまっとうな構図から考えますと、「勉強せえ!」とドヤされながらも、隠れてコソコソと勉強をサボる子供たち…そんな茶飯事も、理論上全くなくなるはずです。
将来ある子供たちにとっては、およそモノにならない勉強にしがみつく必要もないですし、親御さんにとっては、しがみつかせる必要もないからです。
ではなぜ、いつの時代にも茶飯事が起きてしまうのか?
答えは至極単純でして、「勉強ができるようになったらいいな」程度のことは、子供たちも親御さんんも想っているからです。
茶飯事の原因は、この想いの中途半端なることにあります。「できたらいいな」程度の夢想は、艱難辛苦を乗り越えられません。
苦しくなったら子供は逃げる、親は叱る、この救い難い連鎖が、いつの時代にもあるのですね。生老病死の輪廻にも似ているでしょう。
解脱(げだつ)に必要なものはただ一つ。「勉強ができねばならぬ!」と、確信することです。それだけです。
解脱したものが、覚醒したる勉強人になること、これまた皆さん広く諒解されますでしょう。覚醒したものはサボりませんし、非難されることもありません。
中途半端なまま居続けることは、人生の無駄遣いです。悟りましょう!
曇-冬講日記(30)
晴れの日もあれば、曇りの日もあります。人生も勉強も、同じです。
雨に降られないですむかな…と思って歩き出しても、山中で猛吹雪に遭うことがあります。人生も勉強も、同じです。
雲行きが怪しい、雨が降るかもしれない…と思って歩き出したら、数十分後にはカンカン照りなどということもありました。人生も勉強も、同じです。
「中途半端な曇りは嫌い」とおっしゃるかたも多いでしょうが、逆に私は「晴れるかもしれない曇り」が好きです。
「いかにも雨が降り出しそうな曇りが嫌い」と、これも頻繁にお聞きしますが、やはり私は「降らずに済むかもしれない曇り」が好きであります。
天気も人生も、塞翁が馬。勉強も、また然り。
こんなに悠然と構えられるなんて、私も歳をとったのかもしれません(笑)。
曇-冬講日記(30)
晴れの日もあれば、曇りの日もあります。人生も勉強も、同じです。
雨に降られないですむかな…と思って歩き出しても、山中で猛吹雪に遭うことがあります。人生も勉強も、同じです。
雲行きが怪しい、雨が降るかもしれない…と思って歩き出したら、数十分後にはカンカン照りなどということもありました。人生も勉強も、同じです。
「中途半端な曇りは嫌い」とおっしゃるかたも多いでしょうが、逆に私は「晴れるかもしれない曇り」が好きです。
「いかにも雨が降り出しそうな曇りが嫌い」と、これも頻繁にお聞きしますが、やはり私は「降らずに済むかもしれない曇り」が好きであります。
天気も人生も、塞翁が馬。勉強も、また然り。
こんなに悠然と構えられるなんて、私も歳をとったのかもしれません(笑)。