信じたことに殉じたいと思うことが、カッコワルイ時代になって久しいです。
古い世代にとって、「思想に殉死する」というと、なにはともあれカッコイイことだったと思います。
恐るべき不利益とか、後ろ指とか、そんなもんくらい、いくらでもウェルカムだった猛者が、たくさんいたものです。
それでも家族を路頭に迷わせるにつけ、ほんの数秒ほど「申し訳ない」と思うのですが、ほんの十秒後には、どこ吹く風、二度三度の好き勝手となります。
国士気取りならまだしも、単なるチンピラだったりすると、始末におえません。
若い世代は、こんなおじさんたちを、不思議なまなざしで見つめます。
そんなことして、何の利益があるの?…と。
後ろ髪引かれる思いでも、兎にも角にも突き進むことと、進まないどころか、意味不明であると断ずることは、かつて東西冷戦の象徴と言われた、ベルリンの壁より高く隔てられているのでしょう。
おじさんたちは、若年の不信心を嘆きます。若者たちは、おっさん!胡散臭いぜ!…と断じます。
水と油は混じりあわないものだと、今日も神話が屹立しているのです。