このようにおっしゃるご父母がいらっしゃいます。
「私の息子ですから、しょせん、この程度でしょう。」
「長年やってきてもダメでした。多くを期待しません。」
「何度言っても変わりません。言うだけ無駄だと思います。」
もしかすると、照れ隠しされているのかもしれませんが、期待することをやめ、語ることをやめられて、果たして子供は成長するのだろうか?…と、心配になってしまいます。
杞憂に終わらないところが恐ろしいところでして、自堕落に安穏とした子供が、手に負えなくなってから、ご父母が初めて騒ぎ出す…と、何度も繰り返されてきた構図かもしれません。
けがの程度に例えますと、親が子供をネグレクトし始めたところで軽傷から重傷へ、他人の手を借りざるをえなくなったところで、重傷から重体でしょうか。
多くのご父母が、子供にとって「理解」のある、あるいは「民主的」な、そんな時代風潮になってきました。
しかしながら、なんでもかんでも時代に迎合すればよいといったことでもありますまい。とくに教育をめぐる諸事は、時代遅れぐらいがちょうどいいと、長年の経験からハッキリ申せます。
「私たちが子供の頃って、こんなにゆるくなかったですよね。」
そんな当たり前のことに気づかれたご父母が、子供さんを連れて、弊塾にたくさんいらっしゃいます。
みごとに気づかれた皆さんに、弊塾を「撰」んで欲しいものだと、小生たちも思っています。