「じゃ」と読みます。「よこしまなこと」です。
古来人々は、「邪」を避けてきました。「僻邪」と申します。
吉備の墳丘墓に起源する直弧文は、僻邪するためにあったそうです。なにか「よこしま」なモノがやってきても、直弧文を見ると退散する…と。
土器や埴輪に刻まれた幾何学模様にも、ちゃんと意味があったのですね。
古墳の埋葬施設の一部が、真っ赤っ赤に塗られているのも、同じなんだとか。僻邪の朱といって、水銀朱なんだそうです。
外から「よこしま」なモノが入ってこないように、さらには、埋葬されたモノが「よこしま」化して迷い出ないように、そういった意味があったそうです。
『魏志倭人伝』に曰く、玄界灘を往来する倭船には「持衰」(「じさい」と読むそうです)が乗り、航海の「邪」を一身に背負い、食べず、飲まず、沐浴せず、航海が無事に終われば金銀財宝を与えられ、逆に失敗すれば、殺されたと言います。
何を考えているかと言いますと、憎しみとテロルが連鎖する現代において、古代人が「邪を避ける」と考えた知恵は、ずいぶん役に立つのではないかと思うのです。
やられたらやり返す前に、ほんのちょっと立ち止まり、我々当事者は「よこしま」に魂を奪われていないか。もしも奪われているのなら、少しだけ冷静になって、「邪」を払ってから喧嘩しても遅くないのじゃないか。そう考えるところにこそ、「僻邪」が成立して、無駄な血が流されることもなくなろうと、最近その思いを強くしています。