勉強ができるようになりたい人と、勉強ができるようになってほしい人が、塾屋の顧客です。
顧客を大事にせずして、商売は成り立ちません。
塾屋は一生懸命、勉強ができるようになる方法論を伝授します。
顧客は一生懸命学びます。
「学校」というエスタブリッシュメントでは、きっと教えてもらえないのでしょう。
書物・映像などにも、ピッタリ該当するものがないか、あってもインパクトが薄いのだと思います。
こうして塾屋の商売が成立します。
長いこと塾屋をやっていますと、顧客の羨望を感じます。
「先生のように勉強ができるようになりたいです。」
「先生みたいにスラスラ解けたら、どんなに幸せなことでしょう。」
すばらしいモチベーションですが、少し立ち止まって考えておいてください。
小生は少なくとも、勉強が好きで、あまり苦も無くやってきた類の人です。お天気まかせの風まかせではありますが、勉強を苦しいと感じたことがありません。
そんな人にとって「勉強」なるものは、音楽好きがCDを聞くのといっしょ、サッカー好きがグラウンドを駆け巡るのといっしょ、多少たとえは悪いですが、パチプロになったパチンコ好きといっしょ、雀鬼になった麻雀好きと一緒です。
多くの人にとって、勉強なるものは、そんなものではないですよね。嫌いでも我慢してやるもの、やらざるを得ないから、泣きながらでもするもの…ですね。
ですから、先生みたいになってはいけないのです。と言いますか、なれないのです。
しかしながら、好きなことだけをむやみやたらにやっている人と、嫌いなことでも我慢してできる人、どっちが偉いでしょうか。
生徒たちに、こんなふうにいます。
きみのご両親のお姿を、思い起こしなさい。好きな仕事だけやっていますか?少しくらい文句たれながらでも、嫌いなことを我慢してやってはりますよね。家族のため、社会のため、国家のため、一生懸命生きてはりますでしょう。
そんな人間になる努力をしなさい。勉強嫌い、大いに結構。神様は、あなたを、好きなことしかできない人にしないよう、ご配慮下さったのですよ。
さあ、がんばりたまえ!
…「勉強は好きになってやり始め、好きだからこそやり続ける」、そんな無知蒙昧は、そろそろ捨てようじゃありませんか。
学者や官僚の作文に、益するところはありません。机上の空論に、価値はありません。
好学の徒は、そんなふうに考えています。