「卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人」(三国志魏志東夷伝倭人条、いわゆる『魏志倭人伝』)
ずっと気になっていたフレーズであります。こんなふうに書き下します。
「卑弥呼、以って死す。大いなる冢(ちょう)を作る。径、百余歩。殉葬(じゅんそう)さるる者、奴婢(ぬひ)百余人。」
書き下しただけでは、わからないですね。こんな意味です。
「そうしたわけで、卑弥呼が死んだ。大きな古墳を造った。直径が百歩あまりの長さだ。奴隷、百人ほどが殉死させられた。」
謎の女王・卑弥呼が君臨する邪馬台国に、何か重大な事態が惹起して、女王が死んでしまった…と読めます。
重大な出来事とは、男王・卑弥弓呼(ひみくく)に率いられた狗奴国(くなこく)との戦争であったようです。
時は三世紀のほぼド真ん中、吉備(岡山県)をはじめとする瀬戸内勢力に支えられた邪馬台国連合が畿内を制圧し、越(こし・北陸)から伊勢湾岸に防衛線を引いた狗奴国と対峙しました。
邪馬台国に戦局利あらず、魏の皇帝に請うた援軍要請もむなしく、女王は戦死し、瀬戸内勢力は後退したのでしょう。
狗奴国は軍事的に勝利し、邪馬台国連合を牛耳るために、畿内に乗り込みました。政権勢力の交代があるかと思われました。
果たして交代があったのでしょうか、無かったのでしょうか、事実をして語らしめましょう。
三世紀後半、邪馬台国が二代目女王・壹與(いよ)を戴いた時代、狗奴国の墓制である前方後方墳や、伊勢湾岸地域に特徴的なS字口縁脚台付甕が、畿内に爆発的に増えていきます。軍事的に勝利した狗奴国の余勢を感じます。
しかしながら四世紀前半、初期ヤマト王権が採用した墓制は、冨と権力を象徴する巨大な前方後円墳でした。狗奴国の政治的敗北を、感じざるをえません。
もしかすると、政治と祭祀が全く未分化なこの時代にあって、狗奴国は宗教的権威を飾りたてることに、あまりに無頓着であったのかもしれません。
卑弥呼の死を語ることは、「もう一つの邪馬台国」を語ること、小生、そんなロマンに浸りたい今日この頃です。