夏講日記(その22)-留め置かまし 大和魂-

小生、他に類をみない授業スタイルを貫くことがあります。ゆえあってのことです。

解説用ノートに書く算数の「解説」を、敢えて「お手本」と呼びます。「お手本」は、真似するためにあります。

「学ぶ」とは、「真似ぶ」が転じた言葉です。勉強はお手本を「真似」することから始めるのです。

一転「国語」を講じるときには、まず書かせます。

「朝起きて、なんて挨拶する?おはよう…か?Good Morning…か?Guten Morgen…か?」

「おはよう…だったら、四の五の泣きごと言わんと、とにかく書け。しょせん日本語じゃ!」

まず書いて、コテンパンに直されて、初めて書くことの苦しさを知り、辛さを知り、文句言われへん解答を編み出そうとし始めます。

「しょせん日本語」に、お手本は不要です。必要なものは、鉛筆と利き手と、そして蛮勇です。

睡魔に行く手を阻まれた時、「潔く!」と、ぶっきらぼうに言われます。

「潔く」することといったら、椅子を取って膝立ちになるか、机の上に正座するか、切腹するか…どれか一つですね。

ほとんどの皆さんが、椅子を取って痛みに耐え、睡魔を粉砕します。

何時なんどきにも、不審者情報メールとお天気速報に目を光らせます。

生徒の通塾ルートに不審者、通塾時刻にゲリラ雷雨などなど、リアルタイムに還元します。

マナーモードが多少震えすぎてやかましいガラケーですが、おおいに役に立っております。

「常識」的にしか教えられない教場を「教室」とは言いません。

「常識」を教えるだけの授業は、本当の授業ではありません。

必要なものが、必要な時に、必要に応じて、自由に飛び出してくる、非常識な空間を、小生敢えて求め続けていきます。

石川数学塾大阪
学園前教室・杉浦