「先生って、子供の頃、どんな子だったんですか?」と、聞かれることがあります。
隠し事せず、正直に答えることにしています。
元気な子でした。大人になったら「長嶋茂雄になりたい」と、真剣に主張しておりました。いわゆる野球少年でしたが、かなりアホだったかもしれません。
理屈っぽい子でした。長嶋茂雄の次は、「哲学者になりたい」と、これまた真剣に主張しておりました。かなりの確率で、アホだったにちがいありません。
不思議な子でした。小生全く記憶にないのですが、西三河の山奥のおふくろの実家に行くと、家の中では決まって仏間、家の外では田んぼか畑に、一人でいたそうです。仏間では遺影と語らい、田んぼでは赤とんぼと、畑ではジョロウグモと語っていたそうです。
おふくろの実家から道を隔てて真向いが村社でした。拝殿が開いていると、日露戦争の出征写真が飾ってあったりして、これはこれで幼き小生にはとてつもなく興味深いものでしたが、正面向かって左に、奇妙な「庚申さん」が鎮座していたことが、無性に楽しかったらしいです。
見ざる、言わざる、聞かざるたちが、三十三体も彫られていました。6行×5列が、かわいらしく小さく、あと3匹が大きく彫られておりました。小生は猿たちに正対して、見ざる、言わざる、聞かざるポーズを、延々と真似しておったそうです。
軒下のアリジゴクをだまして釣ったり、縁の下のニワトリと追いかけっこしたり、なかなか目を離すと危険なやつだったとか。
西三河の山奥が大好きな子でした。いわゆる山猿ですね。
ふだん学園前教室で教えておりますのは、大人になった大山猿だと思ってもらっていいでしょう。
大山猿は、何か大事なものを、子供のころ大好きだった西三河の山奥に置き忘れてきたような、何とも言えない所在なさとつき合いながら、都会生活を送っています。
毎週末、明日香村や三輪山麓に探しに行くもの、それは子供の頃の小生自身なのかもしれません。