「身はたとひ 武蔵の野辺(のべ)に 朽(く)ちぬとも 留め置かまし 大和魂」
我が心の師・松陰先生は、安政の大獄にて、罪無く処刑される前日に、遺書『留魂録』(りゅうこんろく)を書き上げました。
同一内容で二部書かれたそうです。一部無くなっても、もう一部伝世するよう…、カーボン紙など無かった時代に、ましてやコピー機など無かった時代に、いやあっても獄中ではきっと使えなかったであろう時代に、松陰先生、おおいに慎重でいらっしゃいました。
夏講日記の副題を、冒頭の辞世からいただきました。『留魂録』のに書かれたものです。
我が刑死体が処刑場にさらされ、腐り果てていこうとも、たとえ肉体が滅ぼうが、我が大和魂は留め置きたいものだなぁと。
ご自身の死にもかかわらず、まるで他人事のように美しい、松陰先生ワールドであります。
「死して不朽(ふきゅう)の見込みあらば、いつでも死ぬべし。生きて大業(たいぎょう)の見込みあらば、いつでも生くべし。」
「死は好むべきにも非(あら)ず、亦(また)悪(にくむ)むべきにも非ず、道尽き心安んずる、便(すなわ)ち是れ死所。」
ともに高杉(晋作)宛ての書簡です。
「難しいなあ…。要するに、ダラダラ生きて老衰で死ぬな、生きる価値があってこそ生きよ…そういうこと?」
と、大人びた生徒に、しばしば聞かれます。
「そうだよ。生きるべき生(せい)を生き、死ぬべき死(し)を死になさい。先生はそう言ってらっしゃるんだね。」
もしも、もしも、激烈なる生を、何かのまちがえで長生きされてしまったら、子供たちに微笑みながら昔日を語る、松陰先生に出会えたかもしれません。出会ってみたかったです。