我が心の師・吉田松陰先生について語るとき、いずれも「人後に落ちず」と自負する面々が集まると、遺書「留魂録」のどのフレーズが好きか?ってな、マニアな議論になります。
諸説紛々ののち、落ち着きどころが決まってここです。
「今日死を決するの安心(あんじん)は四時(しいじ)の順環に於(お)いて得る所あり。蓋(けだ)し彼(か)の禾稼(かか)を見るに、春種(たねまき)し、夏苗(なえうえ)し、秋刈(か)り、冬蔵(ぞう)す。秋冬に至れば人皆其の歳功(さいこう)の成るを悦(よろこ)び、酒を造り、醴(れい)を為(つく)り、村野歓謦あり。未(いま)だ曾(かつ)て西成(せいせい)に臨(のぞ)んで歳功(さいこう)の終るを哀しむものを聞かず。」
…人生は、四季のようなものだと。収穫の秋と、秋に次ぐ冬を、人々は喜ぶ。人生の秋冬だけを、悲しむ必要があろうか…と。
罪無くして処刑される、まさに前日に、なんと清々しい理屈でありましょうか。小生のような凡人には、およそ真似できません。
何歳にして四季を終ろうとも、長い、短いの人生ではなく、中身の濃い一生でありたいと。
「義卿(ぎけい)三十、四時巳(すで)に備はる、亦(また)秀で亦実る、その秕(しいな)たるとその粟(ぞく)たると吾が知る所に非(あら)ず。もし同志の士その微衷(びちゅう)を憐(あわれ)み継紹(けいしょう)の人あらば、乃(すなわ)ち後来(ごらい)の種子(しゅし)未(いま)だ絶えず、自ら禾稼(かか)の有年(ゆうねん)に恥(は)ぢざるなり。」
種子が物理的に実ろうが実らまいが、存念は世代を超えて継承される。それゆえにこそ、人生有意義であると。
もはや澄みきった美しさと言わずして、何と形容されましょうか。書物を介してのみですが、我が心の師に出会えて本当に良かったと、天に感謝したいです。
いささか尊大にはあれど、願わくは小生の背中に四時(しいじ)を透かし、種子を継紹(けいしょう)せんとする人あらんことを。