あの頃のこと(その3)

もう5年経ったんだなと、感慨を覚えます。2009年2月25日、小生の親父が永眠いたしました。

「ちょっとした心不全」だったはずが、心臓大動脈弁硬化症と判明し、弁の置換手術まではうまくいったんですが、術後に日和見感染したMRSAが致命的でした。きっちり闘病百日でした。

救急搬送と聞いて、急いで愛知へ、車で3時間、毎年恒例の京大見学ツアー(11月23日)が中止になりました。毎日曜日ごと、実家と病院を行ったり来たり、荷物をピストン輸送しました。日曜深夜に愛知をあとにして、奈良に帰ってくるのが月曜早朝、午後1時からお仕事です。

ICUから念願の個室へ親父が移った日、23時愛知発、26時奈良着、10分後に病院から急報、「再挿管が必要な状態。許可願う」とのこと。26時30分奈良発。29時30分愛知着。ICUに帰る手続き。おふくろを落ち着かせて、妹と交代して、33時30分、仮眠開始。35時30分、仮眠終了。病院という戦場を離脱、奈良へ、教室へ、入試直前の戦場へ。

「親父が死ぬはずがない」と、何の根拠もなく思っていました。たたき上げの新聞記者でした。「広告取り」と自嘲していましたが、記事を書くことが何よりも好きでした。終戦の玉音放送を聞いた闇市世代でした。偉そうな軍国野郎が、一夜にして平和万歳を叫びだす無節操を、終生忘れませんでした。権威・権力がとにかく嫌い、学校教師を木端官僚と笑い飛ばしました。

「将来の希望は?」と聞かれて、「長嶋茂雄!」と真顔で答えるアホ息子(…が、私です)に、いつも微笑んでいました。一度だけ「渡世の義理」(…おふくろのさしがねになることです)で叱られました。小学校の漢字テストと計算テストで再追試をくらった息子は、「旧7帝大」の名前が順番に全部言えるまで覚えさせられました。「世の中、こうなっとる。覚えとけ!」。学歴社会の厳しさを、親父に教わりました。

そんな親父が死ぬはずな…くはない…かもしれない、と思いました。喉を切開して挿管中、筆談しかできなくなっていた親父が書きました。「迷惑をかける。申し訳ない。忸怩たる思いだ」。おふくろに見せないように、とっさに隠しました。

おふくろが聞いていた親父の「遺言」は、驚くべきものでした。「葬儀不要。坊主不要。焼香不要。戒名不要。墓不要」。およそ現実に折り合える内容ではありませんから、さあ、私の出番です。「葬儀」はしませんでしたが、「お別れ」を言うために皆さん集まってこられました。「読経」の代わりにテレサ・テンの「別れの予感」が流れました。皆さん、焼香の代わりに、1本ずつ「献花」されました。戒名なし、俗名のままでした。墓はおふくろが自分用に建てました。「親父も入りたければ、ど~ぞ」だそうです。

親父が嫌いだった家紋を、私が変えてしまいました。楠木正成公が後醍醐天皇から賜ったという菊水紋にしました。母方の先祖が古くヤマト大三輪に、オオモノヌシに奉げる神酒を造り、父方の先祖が後醍醐天皇の挙兵に呼応、山城笠置の山にて六波羅兵相手に奮戦した三河源氏・足助重範公に随伴した、まさに「尊皇の家系」…と、まあ私も、歴史学者…の末席に加えていただけますでしょうか(笑)。

もう5年経ったのに、いつもどこかで親父に見られているような気がします。「孝行のしたい時分に親はなし」。息子というものは、いつまでたっても、とてつもなく大きかった親父の背中を見続けるものなのかもしれません。(続く)

学園前教室・杉浦