春期講習が終わり、桜吹雪が終わり、ウグイスの鳴き声練習が終わり、毎朝出会うゴールデンレトリバーが冬眠(?)から覚めたころ、ホッと一息つける刹那があります。「レトリバーって、冬眠しましたっけ?」「う~ん、冬眠するんちゃう?熊みたいやし…」と、微笑ましくもジャレあう飼い主とレトリバーの至福のひと時にも似た一瞬が終わるとき、それでも、しつこくも、小生をのどやかな春眠に誘う、忘れ得ぬ「あの頃」が思い出されます。
昭和がもうすぐ終わりを告げる(…とは、思ってもいなかった)あの頃、ちょうど30年前の春、小生は某大手塾の教壇に立ちました。「高校入試と小学校低学年、担当してね。できるでしょ!」。これが上司からいただいた初めての「業務命令」でした。「研修も無しで、ええんかいな?」と、疑問に思うゆとりもなく、修練の日々が始まりました。
小生、まさに若造でした。「授業はパフォーマンス」と断じておりました。「わかりやすいパフォーマンスが、唯一成績向上の基(もとい)」と盲信しておりました。「なんだか変?」と気づくのに、六か月もかかりました。パフォーマンスを磨けば磨くほどに、みるみる生徒の成績が落ちていったのです。若造は深く悩みました。
小生と違って、成績を上げている同僚の授業を研究しました。見学に行って驚きました。「この問題、解いてみい。いや、ちょっと待った、こっちにするわ。う~ん、よし、決めた。そっち、解いてみい」。なんと自信無げな、頼りなさそうな。「こりゃあ、失格やろう!」と思いました。
浅はかでした。なぜ、この授業が成績向上に結びつくのか、しょせん小生のレベルには、知る由もなかったのです。このことに気づいた瞬間、まるでハンマーで十往復ほど殴られたような衝撃を感じました。
小生の授業とは、生徒の「目」が違っていたのです。同僚の授業は、いつもハラハラドキドキ。いつ失敗するとも限らないスリルとサスペンスに満ちています。授業が終わるまで、それこそ「目」が離せないのです。同僚に比べたら、失礼ながら小生は立て板に水、しかしながら、正論続きの単調リズム、いつしか「目」が眠ってしまうのです。
限りなくわかり続けることの所在無さ、右の耳から左の耳、お仕着せのパフォーマンスは聴衆を無視した無益の連鎖になり果てていました。本当に浅はかでした。
昔も今も、気づいたら直します。意図的な計算ミスを織り交ぜました。誤字・脱字を敢えて板書しました。「先生!、そこ繰り下がってへんでぇ」。「先生!、漢字間違ってるわぁ」。生徒が「冬眠」から覚めました。成績も上がって行ってくれました。
集合授業をしなくなった今でも、「ペン先を、よく見てたね」とか、「十秒前に言ったこと、よく聞いてたね」と、ほめられる生徒がいます。単調な解説に陥らないために、あちこちに小さな「薬」をばら撒いて話します。用法・用量を守りませんと、「薬」も「毒」になることがあります。いや、表現が違ってますね。「毒」をうまく使ってこそ「薬」になるのですね。
今日もセッセと「薬」を仕込み、台本を練り上げ、…そうしはじめた30年前のあの頃を、懐かしく思い出します。あの頃とよく似た春だからでしょうか?(続く)