大阪通信 Vol.10 配布開始しました -引き続き、立ち読みOKです-

まずはヘッドラインから。

1.6月9日(日)、馬見丘陵古墳公園に行ってきました
2.育英西中学・高校の教頭先生からお礼状をいただきました
3.夏講・合宿のお申込、ありがとうございます

立ち読みは、馬見丘陵古墳公園に行ってきたお話しから。

「新規「歩こう」ルートの開拓と体力増進を兼ねて、馬見丘陵古墳公園に行ってきました。
近鉄大阪線、八木駅から大阪上本町方面に五位堂駅、この駅で下車して歩くこと20分、真美が丘ニュータウンがあります。この「真美」なる名称が、古代以来この地を指し示した地名「馬見」(うまみ)から付けられたことが広く知られています。
馬見地域は、佐紀地域と並んで、大型古墳が密集する丘陵地帯です。邪馬台国と初期ヤマト王権が奈良盆地東部の三輪山の麓に存在し、山辺道を這うように進化していったことは疑い得ないと思いますが、実在がほぼ間違えない最古の大王「崇神」、実在が怪しい「垂仁」、実在したでありましょうが果たしてたった一人だったのか疑問な「景行」…と、ここまででいわゆる三輪王権は衰退、4世紀後半には三輪山裾にまるで造りかけで放置されたような前方後円墳「ホタテ貝式」が流行し、それと逆比に、佐紀エリアに巨大前方後円墳が造られ続けます。5世紀に入っても佐紀エリアが衰徴することは無いのですが、5世紀に入るやいなや、突然降って湧いたように大阪の河内・百舌鳥に超巨大な前方後円墳が造られ始めるのですね。教科書に必ず載っている大仙古墳(仁徳陵)や誉田山古墳(応神陵)も、河内・百舌鳥の古墳です。この陰に隠れて目立たないですが、5世紀になりますと佐紀エリアに並ぶ規模の前方後円墳が馬見エリアに造られ始めます。私は、5世紀の三輪エリアと佐紀エリアを大王家の本家と別家(どちらがどちらかはわかりません)、河内・百舌鳥を(一部の例外を除いて)大王家の奥津城エリア、馬見エリアを葛城氏の支配地域と考えています。5世紀末、雄略大王が葛城本家を壊滅させるまで、葛城の勢力は大王家をしのぐものであったのではないか【註】、そんなふうにも考えています。
(中略)
【註】雄略大王と葛城氏に関して、記紀はこんな逸話を伝えています。雄略大王が葛城山に狩りに出かけた際、雄略ご一行とそっくりないでたちの一団に遭遇した。一団は「葛城一言主神」(ひとことぬしのかみ)を名乗り、ビビッた雄略が装束を渡し、脇道に控え、丁重にお見送りした…と。「葛城一言主神」は、葛城襲津彦(そつひこ)以来、葛城氏を象徴し、倭の五王のなかでも最左翼の武闘派「雄略」さえも恐れさせる権勢を誇った、そんな寓意と読まれています。」

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